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私の中心でキムタクが叫ぶ

こんなタイトルだからと言って、このご時世のジャニーズの話ではない。

noteには下書き機能があり、その下書きが山ほど積まれていることは以前こちらに書いた

その中に、最近人から思わぬ言葉をかけられたときのモヤモヤ感を書いたものがある。
実は多少論点をずらして、そのときのことを投稿したことがあるのだが、どうにもこうにもモヤモヤ感は収まらず、もう1本記事を書いた。
なんて執念深いのだと思いながらも、削除できずに公開待ちの列に置いてある。

こんなことはしょっちゅうだ。
勢いに任せて記事を書き、投稿しようとする一歩手前で、私の中のキムタクが「ちょ、待てよ」と囁く。
私にとっては愚痴なんていうものではなく、心の叫びなのだが、かと言って、それを逐一吐き出していては、誰もnoteを読んではくれなくなるだろう。
ありがたくキムタクの声を聞く。


そんなわけで、記事はまだ下書きの中にあり、私に好ましくない言葉をかけた人に対しては、「なんかいろいろあって、私を羨ましがっているだけなのだな」というレッテルを張ることで、私の心はなんとか平穏を保っている。

結局のところ、私の苦しみは「人に理解されないこと」なのではないかと思う。
手や足が動かせないとか、移動が困難とか、物理的な苦しみは小さくはないが大きいわけではなく、不思議と私は「健常者になりたい」と思ったことはない。
それよりも、この困難さを理解してもらえないことの苦しみが大きい。
更に理解されないことに対する恨みつらみや不寛容性といったものが私を支配する。
吐き出したくなる。
私の中のキムタクはやっぱり「ちょ、待てよ」と囁く。

けれど私の中のキムタクは、私をなだめすかすばかりではなく、時には味方にもなってくれる。
私の生活の一部始終を知らない人に、努力を強いられたり、諦めさせられたり、あるいは「贅沢な悩み」「望みすぎ」だとか、「みんなだって大変なのよ」と言われる度に、私の中のキムタクがその相手に向かって「ちょ、待てよ」と叫ぶのだ。

私は何も自分だけが苦悩を背負っているなどとは思っていない。
だけれども、五体満足な人に「あなたは恵まれています」という類のことを言われるのも、何か違うような気がする。
「知りもしないくせに言ってんじゃねぇよ」と私の中のキムタクが言う。


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