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カウンセリングを諦めた理由

前回、カウンセラーの目線に耐えられない、というところまで書いた。

あといくつか、カウンセリングの限界を感じるところがある。

カウンセリングの限界

カウンセリングは、嘘をつける。
傷を曝すのはすごくつらい作業だ。
目の前には、冷静に仕事を全うしようとするまともな大人が座っている。

そのときに、嘘をついて、逃げる。
ありえない話だと思うだろうか。
当時のわたしは、嘘をついたと思う。
カウンセラーにも、自分自身にも。

その嘘を、見抜けるだろうか。
見抜けないから、今苦しんでカウンセリングに来ているはずなのだけど。

つまり、カウンセリングに来ても、来たからといって、今までできなかったことを急にできるようにはならない。
傷を癒すことに必要なのは、技術ではなく、自分で自分を受け止める準備だからだ。

どこにいようと、痛いものは痛いし、恥ずかしいものは恥ずかしい。
で、カウンセラーという他人がいるという特殊な状況が、そのことにどう作用するか。
とても相性のいいカウンセラーに当たったら、よい作用を及ぼすかもしれない。
わたしは、残念ながらそうはならなかった。
「まとも」な場所で「まとも」な人に、まともじゃない話をできなかった。
できないことを、さらにカウンセラーに責められているような気になって、悪化したのだ。
当時は気づかなかったけれど、治療の手前でつまずいていた。

心を言語化するのは難しい

ここからは持論を展開する。

記憶とかトラウマに含まれる体験や感情、そういうものたちはひとの中にどのように残っているのだろうか。
少なくとも、言語化されたまま保存されてはいないだろうなと思う。

だから、誰かにその体験を話そうとすると、どこか奥からそれを引っ張り出して、言語化する作業が発生する。
言語化には、頭の部分(知性とか理性とか)を使う。

つまり、前段で書いた、嘘をつくという作業は言語化の途中で無自覚に行われるのだ。
感情を言語化しようとするとき、その感情が辛ければ、違う言葉に入れ替わる。
表面の自分は、あっさりと騙され、あっという間に塗り替えられる。
今までのままでいたい、可哀想な自分を認めたくない、実は騙されたい自分がいるからだ。

嘘をつくまではいかなくても、話を盛るとか無かったことにするとか、友達の話にすり替えるとか、日常なんとなく起きていることがここでも起こる。
キラキラした自分でいる方が楽なのだ。
惨めな自分なんて誰も見たくはない。

すごくすごく傷ついたことをなかったことにしてしまいたい。
本当はそんな痛くなかった、そう思いたい。
見たくない。
逃げ続けたい。
立ち向かおうと思った自分の陰には、そういう自分がいつも隠れている。
治したいなら、そういう弱い自分や自分までもを騙そうとする狡い自分までを想定して解決しようとする気概が必要だ。

心の問題を解決しようとするとき、ただ言語化しようとすると失敗する。
今までの自分のままでいようとする力が働いて、するっと、逃げられてしまい、傷に触れない。


ここまで、カウンセリングの限界を書いてきた。
わたしの場合、これにさらに経済的な限界が加わった。
カウンセリングは高価だ。
そして、終わりが見えない。
何回通ったら、よくなるのか。
誰も答えを持っていない。
大きな病院で、公的支援を受けながら治療に向かっているひとを見た。
わたしは、あの場所にいる自分を受け入れられないと思った。
あくまでも日常を守りながら、自分を治したかった。

そして、カウンセリングを諦めた。

続きます。


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