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タイさんの取材ヨレヨレ日記③ 「抜かれ」はつらいよ

新聞業界で最も権威ある賞が「新聞協会賞」です。その1年間で、もっとも大きなスクープに与えられます。

自慢ではありませんが、私はこの新聞協会賞を4回、ライバルたちに取られてしまいました。つまり、大きなスクープを4回も、他紙に抜かれた訳です。

「抜かれ」というのは、記者にとって最大の屈辱です。一方で、新聞協会賞を抜かれてしまうということは、その時代の最前線、ホットポイントの取材を任されていたということです。

私が抜かれた大スクープは以下の4つ。このうちのいくつかは、皆さんも覚えていらっしゃるかもしれません。

1、証券会社による大口客の損失補填リスト
2、三菱銀行と東京銀行の合併
3、山一証券の自主廃業
4、日本興業銀行、富士銀行、第一勧業銀行の統合によるみずほグループ誕生

衝撃の大きさで言えば、3の山一破綻がナンバーワンでしょう。でも、私にとってもっとも印象深いのは、1の損失補填リストのスクープです。

バブルが崩壊した後、株価は急落しました。投資家たちは大きな損失を出しましたが、主要な証券会社は大口客だけを贔屓にして、彼らの損失は補填し、ダメージを軽減したのです。

どんなに損をしても「自己責任」で片づけられていた一般投資家との扱いの不公平さは、大きな社会問題になっていました。「どの証券会社が、どの大口客に、どれだけの補填をしていたか」をまとめたリストを求めて、記者たちは夜討ち朝駆けを繰り返していました。

スクープは91年に日経新聞が放ちました。私は当時、経済記者2年生。兜クラブ(証券クラブ)に籍を置き、他紙と競いながら、損失補填リストを探し求めていました。

日経新聞が朝刊1面トップでリストの詳細を報じた日の未明。デスクからの電話でたたき起こされた私は、すぐに旧大蔵省4階にあった証券局に駆け付けました。

取材相手を求めて、まだ暗い廊下をやみくもに駆け回っているうちに、ある会議室から灯りが洩れているのに気づきました。ノックもしないで会議室に飛び込んだ私は、当時の証券局幹部たちが必死になって、手元にある資料と日経の記事を照らし合わせている場面に遭遇します。大蔵省が持っていた「真の損失補填リスト」と日経記事を照合し、内容に誤りがないかを大急ぎで確認していたのです。

私は思わず「その資料をくれ。俺によこせ」と叫んで、彼らのもとに駆け寄りました。突然の闖入者に驚いた官僚たちも口々にわめきます。「出ていけ」「勝手に入ってくるな」「不法侵入で現行犯逮捕するぞ」と。

若手官僚に羽交い絞めされた私は会議室から引きずりだされました。会議室はすぐに中からカギがかけられ、もう飛び込むことはできません。

私は会議室の前に張り込み、出てくる官僚たちを捕まえようとしましたが、結局、夕刊の締め切りまでには資料を入手できませんでした。証券会社や銀行など他の取材先を駆け回ってリストを探していた同僚たちも、空振りに終わりました。

この日の夕刊には、100年を超す新聞社の歴史で初めて「日経新聞の報道によると、証券会社による大口顧客の損失補填リストは以下の通り」という、完全に他紙をコピーした記事が載ったのです。

自力でリストを入手するまでは記事にしない、という選択肢もありました。しかし、問題の大きさを考慮すれば、速やかにその詳細を伝える義務がメディアにはあります。最終的に上層部の判断で、異例な「日経コピー」の夕刊を出すことを決めたのです。

「戦犯」となった証券クラブの記者たちには、会社の内外から「なんで抜かれた」「無能」との罵詈雑言が飛んできます。クラブの責任者であるキャップは、あまりのストレスの大きさに身体を病み、大量に吐血して緊急入院しました。末席の記者だった私は公式に責任を問われることはありませんでしたが、しばらくは肩身の狭い思いをしました。

スクープの抜き合い。それは記者にとって、文字通り命がけの作業なんです。

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