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探求 第2章(心の中のことば編(3))

声に出さず心の中で「アーアー」と言ってみよう。自分にだけは、確かに、その声が聞こえている。とはいえ、他人にその声は聞こえない。

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内語。

やって見せることもできず、「これ」だと指し示すこともできず、他人を観察して真似ることもできない。

私の痛みは確かにあなたには分からないだろうが、あるいはあなたの痛みは確かに私には分からないだろうが、「このくらい痛い」とつねって示すことはできる。

内語にはそれすらない。痛みといった私的感覚よりはるかに奇妙な概念だ。

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人は内語をどのようにして学ぶのか、という問いは、自転車の乗り方をどう学ぶのかというのとは、異なる話しをしていることに注意しなくてはならない。

具体的にどんな仕方でも「内語のやり方」を学んだことはないにもかかわらず、「言葉に出さず考える」といった瞬間、人はすぐにそれを理解する。

そして自分と同様に人もそれができていると無条件に信じている信念の体系がある。

言語能力に対して、音や発音や文字の字形や統辞は後天的な要素だ。だから、人は先天的な内語能力を前提に、内語のインスタンスとも言うべき実質を後から学ぶ、と言うほかない。

内語を実現する汎用的「器」のようなものが人に備わっており、後からその器に水が満たされる、といった比喩。

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内語不全という架空の「心の患い」を考えてみよう。この症状は内語を行うことができない。

内語だけで考えをまとめることができないため、考える際はつねに声に出した言葉が伴う。自問自答とは、その人にとって独り言と同じだ。

そういった人に「声に出さずに考えてみよ」という要請は理解されるだろうか。

「きょとん」とするかもしれないし、「できない」と言うかもしれない。

内語不全の人にとって「声に出さずに考えてみよ」は、「黙っていろ」と同じだと理解するかもしれない。

「よく考える」が、内語を伴って考える、という意味だとすると、内語不全の人はよく考えることができないのだろうか。

--- おそらく否。

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「内語」という概念と機能を、われわれの言語から完全に取り去った後、日常生活に困ることはあるだろうか?

困ることはない、と言わざるを得ない。

すると内語は、日常の歯車として噛み合っていないのに、また、いつかどこかで経験的に学習したことがないのに、われわれの間で互いに端的に理解され合っていることになる。

これは奇蹟という他ないのだが、もちろん言語に奇蹟などない。

ここには何か重要な見落としがあるはずだ。

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