探求 第2章(錯視絵編(4))

見知らぬ国の文字を、われわれはただ曲線と直線の塊としか捉えられない。

القط

しかし文字と言語の体系を学ぶことで、一つの有意味な文字として見えてくる。

いってみればアスペクト転換が「ゆるやかに」起きているひとつの例。

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真ん中の小さい■は同じ色で塗られている。

この図式と錯視絵の根本的な違いは何か。

黄-緑絵では、中央の色が実は同じであることを、使われている塗料やRGB値やスペクトル分析で明らかにすることができる。

その場合「これは実際には同じ色だが、背景の違いで違う色に見える」という言い方ができる。(つまり、そのようにして中央の色を「確定」する、様々な基準や検証方法が、われわれの言語には存在する)

錯視絵の場合、これは実際には男だが、ある条件下では女だ、という言い方はできない。これは男でもあり女でもある、という言い方しかできない。

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一方で、青で塗られた図の中央に小さな緑の四角が描かれているとしよう。

青と緑の違いを重視しない文化では、その図は単一色のグラデーションと識別するかもしれない。(信号の「進め」を青といったり緑といったりするように)

その場合「これはわれわれにとって2色だが、ある文化では1色に見える」という言い方ができる。

ここでは色を確定する様々な実証手段がいったん保留されている。相手の色システムに対する好奇心が、自分たちの検証方法を凌駕している。

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素朴に提示された単純な絵についてさえも、極めて多様な人間の自然史が付随しており、それは決して一つの基準で運用されていない。

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ここで最初の問題に戻ろう。

1+1が2の世界と、1+1は2だが、これが10を超えると常に1多い世界の住人は、互いにわかりあえるか。

これら2つの世界の住人は、錯視絵を見ている二人と、どう違うのか。

一つの答。算術という一つの絵について、二人は異なる仕方で眺めている。

しかしこうも言いたくなる。いや加算という数学的な基礎ルールは宇宙全体に普遍なのであって、答えは一つであり、後者は必然的に間違いでなくてはならない。

この「向こう側に単一の何かがある」という頑固な見方を、錯視絵で解きほぐすことができるだろうか。

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