探求 第2章(算術の基礎 編(1))

1+1が2の世界と、1+1は2だが、これが10を超えると常に1多い世界の住人は、互いにわかりあえるだろうか。

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「人が1+1などの算数を正しく計算できるのは、それを学習したからだ」

たしかに小学校で算数を教わったが、では「1231144 + 1231312214」の組み合わせの足し算を、君は具体的にどこかで教わったのか?

教わってない数字の組み合わせの足し算をなぜ人は正しく解けるのか?

するとこう言いたくなる「人は足し算のいくつかの実例と練習を通して、足し算のルールを学んだのだ。」

しかしそのルールを具体的に君はどこかで誰かと確認しあったのだろうか? 「実は10桁以上の足し算では常に1多い数が正しいルールだったのであり、そのことは私が最初に発見して私だけが知っている」と主張するものが現れたら?

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「足し算を練習して会得したのだから、1231144 + 1231312214は正しく解けるはずだ」

では、

「100mの走り方を練習して会得したのだから、400mは4秒で走れるはずだ」は正しいのか。

100mの走り方を練習してマスターしても400mを4秒で走れないように、足し算を練習してマスターしても1231144 + 1231312214のような大きな位の計算をできなくて、どうして悪いのか?

「100m走の個人差」と「算数の個人差」。前者は意味を持ち、後者はナンセンスである。この違いは算術が社会の中で果たしている役割を見ないとわからない。

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狩りで生き抜く必要がある狩猟社会で、100mを15秒で走らなければ狩りができないような社会では、算術を練習したあとに1 + 1を3と答えることは「個人差」だ。しかし走り方を訓練したあとに100mを15秒で走れなければ、それは「まだマスターしていない」とみなされる。

そしてついに100mを15秒で走れなければ、社会的落伍者としての烙印をおされる。社会はこのようにして正常と異常を区別する。社会でより基礎的な役割を求められている能力ほど「個人差」が排除される。

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そこで私はこう問いたい。

---では、1 + 1 が 2 であるのは人間社会の単なる取り決めなのか?

それは数的真理の表現ではないのか?

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