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つなぐ、読み直す、すべてを変える

人新世の「資本論」」(2020)で話題になった斎藤幸平氏に、「大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝」という著書があります。もともとは「人新世」という言葉に目を引かれて、紹介を読んだのが私のきっかけでした。

当時、人新世とは大げさな、と思っていました。46億年の地球の歴史に「人」の名を冠するなんて、と。それって「草食系男子」を流行らせるのと何がちがうのか、と。
つまり流行りものをあまり好まない性格が、引っかかった理由だったんですね…。

ただ、この言葉は流行りでガヤガヤしたいだけというより、環境問題に対して「いいかげんヤバいんじゃないか」という意味合いから注目されだしたことを後で知ったのでした。たとえばCMでは、WWFが地球温暖化にホッキョクグマを取り上げていたのを思い出します。

斎藤氏は、カール・マルクスの資料を足場に環境問題へアプローチします。
近年新たに刊行された「マルクス・エンゲルス全集」(略称MEGA)には、マルクスの抜粋ノートも含まれていたそうですが、そこには、意外にもマルクスの「エコロジー」への関心が見て取れるのだそうです。

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むかし学生運動家のひとたちが “「資本論」は必読だ” と言うのを聞いてから、ずいぶん経ちます。
また、この本には、予備校を出るときに餞別に贈られた「世界の共同主観的存在構造」の廣松渉氏や、数年前に知ったジャーナリストのナオミ・クラインが言及されていたり、あとがきには哲学者のスラヴォイ・ジジェクが寄稿していたりします。

雁須磨子のマンガのタイトル「つなぐと星座になるように」ではありませんが、縁がないと(勝手に)思っていた人たちがつながっていくのは、不思議なきもちになるものです。

振り返ってみると、ここ数年で「環境危機」があらためて関心の的になったのでした。環境問題に興味がなくとも、グレタ・トゥーンベリ氏が国連で発言したことを覚えている人もいるでしょう。
いったい何が起きているのか、そしてこの問題をどう捉えて、どうやってアプローチすればよいのか。日本でも、ざわざわとしたなかで話題が焚きあがっていたように思います。

この辺りのふんいきは、個人的に、佐々木中氏の「夜を吸って夜より昏い」(2013)、あるいは映画の「JOKER」(2019)などにダブっていくのですが、しかし社会変革に向かうアクションは、必ずしも過激なものばかりではないとも思っています。

斎藤氏がその著書をもって世に問うことは、それ自体が社会変革にむかう一つの例として考えてよいのかもしれません。

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まず、かんたんな予習から。

「人新世」とは、2000年に提唱された言葉です。第15回科学委員会会議で、オランダの大気化学者のパウル・クルッツェンが「われわれはもう人新世に入っているのではないか」と発言したことがきっかけで、議論が加熱されていったそうです。

そこには、46億年の地球の歴史を区分してみると、人類が地球にあたえた影響はとても無視できるものではない、という考えがあったそうです。

では、そもそもなぜこんな状況になったのか。その片棒を担いだのはカール・マルクスだという見方があります。人類の進歩が第一だ、自然破壊上等、と旗振りをしたのは彼ではないか、と。

その後数十年にわたって、マルクスの思想は「プロメテウス主義」(Giddens 1981:60)――極端な生産力至上主義であり、技術進歩によって、あらゆる自然的限界を突破して、世界全体を恣意的に操ることを目指す近代主義の思想――であると批判され続けてきた。

(大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝、p7)

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これに対して斎藤氏は、マルクスの思想は「エコロジー」という視座なしには理解することができないと強調します。
この見方は、世界的にも歴史的にも異色らしく、本書冒頭でもこれまでの経緯が示されます。

「エコロジーは、マルクス主義の盲点」である(篠原 2016:285)。「マルクスの思想は、ジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」(Fraser 2014:56)。これらの発言に端的にみられるように、いまでも、「マルクスの環境思想」は存在しえないものとして批判され続けている。

(p6)

斎藤氏は「マルクスのテクストにいま一度立ち返り、より体系的で、より包括的な形でマルクスのエコロジカルな資本主義批判を再構成」(p13)しようとします。

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かつて5,60年ほど前、日本では学生運動が激しかった時期がありました。学生自治、反戦、反米、その目指すところは多岐にわたりますが、 “現状をなんとかしたい” という強い思いが広がるなか、マルクスの「資本論」がバイブルのように読まれていたようです。

しかし、その暴力的な側面や社会主義国の現状が知られるようになり、また社会が豊かになったことで学生運動は下火になったといいます。そして学生運動や社会主義は嫌悪や反省の対象となって、再び顧みられなくなっていったようです。

時代は下り、斎藤氏は新MEGAを読み直すという道を選びます。参照すべき資料や研究、そして社会情勢や環境も異なるとはいえ、いままでと異なる読み方を選ぶのは大変なことではなかったかと思います。

いわく、資本論はマルクスの死後、エンゲルスによって書き継がれたためにズレが生じた――経哲草稿はアイデアのスケッチにとどまる――抜粋ノートは都合のいい格言の採掘場などではなく、彼のエコロジーへの関心があきらかに読み取れる――。

ほとんど知識のない私でも、それぞれの主張はそれ自体に変革的なものを感じさせます。
読むとは勇気のいること、と誰かが言った気がします。自分も行動する哲学者でありたいと思った彼は、まさに「読む」ことから変革を図ったのでしょう。

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さて、内容はこれから読もうとするところです。アプローチからつい熱くなったので、まずは紹介まで。
文章も読みやすいと思いますので、よければ手にとってみてください。

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