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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第4章

その8
中学生時代

 そんな2年半を経て我々は小学校を無事に卒業し、少し離れたところにある青園中学校に進学した。小学校時代の塾生たちは各クラスに散ったが、この中学校は私たちが通った聖雲小学校と新川小学校の2校の生徒の合同であり合計7クラスになった。そこでつい数か月前に洗礼を浴びたように、またしても私はくりくり坊主頭で、しかも大きめの詰め入りの学生服姿、首が短く小太りで登場したのだから、初顔合わせの新川小から来たクラスメートたちのこれでもかという注目と好奇なまなざしにさらされた。本当につらかった。それでも慣れてくると中学校生活は、日々新鮮であった。初恋らしきことも経験したし、塾での男女生徒の話題も随分中学校生活を反映して華やかに変化した。急に大人びてきた友人たちの間で、憧れの先輩は誰それ、誰かと誰かが付き合っている、というような話題に終始した。また受験の話題も頻繁に出始めるようになり、やはり思春期に入るころなのか皆目に見えて身体も心も変化してきた。

 ここで冨丘塾の新たなルールを付加する。それは部活禁止である。いわゆる中学校での選択課外活動は運動部系も文科系も基本的に禁止であった。学習塾での学びを貫徹するためというのがその理由であった。もちろん異論を唱える親もいたが、これも冨丘塾の決め事だから例外は無い。本当に課外活動を行っていたら勉強が疎かになるか、と言えば決してそうでないことはわかっていた。私も正直運動は好きであったが、幸運なことに身体も小さく運動神経も人並みであったため得意な方ではなかったことと、当時流行りの部活の根性主義(サインはⅤや柔道一直線、赤き血のイレブン等のいわゆるスポコンドラマ全盛)はご免被りたい方であったので、特に残念ではなかった。しかし塾生の中には運動神経の良いものも多く、部活に誘われていた塾生もいて、彼らはおそらく無念だったに違いない。その証拠に高校進学してからいきなり野球、サッカー、ハンドボールと部活に勤しんだものもいた。今思えば、小学校時代の同級生たちが各種の運動部で活躍して黄色い声援を受けている姿を横目で見ながら、ちょこっとだけ出来心で羨ましかったのは否定できない。彼らはいつの間にか大人びた表情と体つきに変化していった。

 そんな、ませガキから少しだけ大人になってきたころ、塾の授業の合間に先生が男子に必ず聞くことがあった。「そろそろちんちんに毛が生えてきたか!?」これを一人一人に問いかけるのである。我々には大変迷惑な話で、しかも女子たちの面前である。一昨日は健治、昨日は信ちゃん、そして今日は私というような按配。いきなりそう聞かれても最初の内は皆「いえまだです・・」とうつむきがちに答えたりしていたが、中二の半ばくらいからか、ぼちぼち毛が生えだすものも出始めた。裏切り者と怒るわけにもいかず、わが身のオクテさを恨むしかない。特に、健治は早かった。健治は、塾の横の通りを西のほうに歩いて、右側に当時あった製紙会社のアパートに住む生徒の一人であった。社宅隣接の共同浴場に先生と時間を約束していつも通っていた。「健治!今日は7時な!」「はい!」こんな台詞のやりとりをしていた。先生のお宅にはお風呂が無かったことや、先生は足が悪いので介助が必要なことから健治か社宅に住む他の生徒がいつも迎えに来ては共同浴場に付き添っていた。そんなこともあってか健治のちんちんに毛が生えたことは既に確認済みのようであった。
 私はオクテで多分塾生男子の最後の方であったから、それでもある日先生が「三平!(未だこう呼ばれていた)お前最近少し大人っぽくなってきたな!」と言われ、にやにやしていたら、すかさず「ちんちんに毛が生えたか!?」と来た。実はもう生えかけていたので「はい…」と言ったら「そうか!生えてきたか!」と何とも嬉しそうに笑っていた。単純に生徒たちの成長を喜んでいただけかもしれないが、でも今思い出しても授業とは関係の無いこんな対話が多かったこの塾での楽しい思い出のひとつである。こんな会話をしょっちゅう聞かされていた女子には申し訳ないが…もちろん女子にはこんなセクハラじみたことは何一つ尋ねない先生であった。女子にもビンタはするが、普段は紳士的な態度であり…当たり前か…

 先生は、我々が中学校2年の終わりころ、曲がらない足の切断手術をすることになった。ずっと体調がすぐれなかったのも関係していたと思う。たまたま中学校1年から市内の薮田外科の娘で薫ちゃんという聡明な女子が入塾していた。このころから先生はこの薮田外科にかかっていたようである。薮田先生を何度かお見かけしたことがあったが、まち医者の鏡のような医師という評判であった。当時からA市と言う街はその筋の方々が闊歩している繁華街が多かったが、そんな彼らはやんちゃした後なのか、時折薮田外科を訪れていた。そして診察室から薮田先生の「だまれ!」「じっとしていろ‼」等の厳しい叱責の声が聴こえることもしばしばあったそうだ。極道にも全くひるまない赤ひげ先生だったと思われる。この薮田先生との出逢いはその後の冨丘先生の人生を大きく変えたような気がする。話を戻すが、足の切断手術のために塾は2か月ほどお休みとなった。この手術はA市を離れた地方都市の病院で行われたと記憶している。現金なもので私たち塾生は、先生に対する心配をよそに2カ月間のモラトリアムを喜び毎日遊び惚けていた。今思えばけしからん輩である。
 2カ月がたち、保護者達に連絡が入り、先生が帰ってこられるとのこと。その日は生徒も親たちも挙ってA市の駅に出迎えに行った。初冬の寒い夜であり雪が道路に溜まって歩きづらかった。駅前の広場に着いて驚いたが各学年の塾生、更に卒塾生(高校生、大学生)やその親も大勢集まって来ていた。その数はざっと100人近かったのではないだろうか。薮田先生に付き添われて汽車から降りてきた先生は幾分やつれた感じであったが、冬用の外套を着て両方の松葉づえをつきながらも自身の足でゆっくり歩いてタクシーに乗り込まれた。その時父母の方から声が掛けられたと見え、恐縮そうに何度も何度も頭を下げておられた。先生は人を煩わすのが一番嫌いな人だったから、この時は有難さの反面、相当辛いのだろうなと感じた。その帰り道、先生の覚束ない足取りと強張った表情を思いだし、子供心に何とも言えずやるせない気持ちが過っていた。「先生…お帰りなさい。お疲れ様でした。」と心でつぶやきながら。

 その数日後、以前のように授業は再開した。先生の松葉づえは無くなり膝から下がプラスチック製の義足になっていた。少しぎこちないが足は曲がるようになった。そのせいもあるのか先生が以前より少し優しくなったような気もした。一つには我々が小学生から中学生、思春期に入ってきたことも多少は関係ある気がした。先生は生徒に年齢や成長に合わせた接し方をなさり、距離感を微妙に変えていた。そんな矢先、ひとつの事件が起こった。その日は夜の授業で、先生は最初からとても体調が悪そうであった。今思えば、まだ大手術後の病み上がりの最中なのに、きっと無理をしていたのだと思う。もともとお金や義務感のために授業をやる人ではなく、我々の学びの遅れを取り戻さなくてはと考える、そういう責任感の人であった。黒板に何か書いていた先生がふっと長椅子に身体を預けたかと思うとそのまま昏倒して動かなくなった。
 我々は一瞬何が起きたのかわからず口々に「先生‼ 先生‼」と呼びかけた。だが返事が無い。驚いた女子のひとりがすぐに隣の居間に駆け込んでいった。奥さんが入ってきてその様子を見て、電話で薮田先生を呼んだ。まもなく薮田先生が駆け付け、しばらく脈を取った後、抱き起して居間に連れて行った。我々はただおろおろするばかりで沈黙のうちに時を待った。薮田先生が戻られて「今日は皆さん、このまま帰ってください。あとは大丈夫だから。」そう言われて、我々は帰宅した。帰途につく間先生の病状の心配と、こんなぼんくら生徒たちのために病身を押していつも授業をする先生にあらためて胸が熱くなっていた

その9

 このように塾の授業は中学に入っても変わりなく続いていた。ただ、2年も終盤になるとはっきり高校受験を意識したシフトになってきた。小学校の頃はクラス単位のテストと成績であり通知表も5がいくつとか、4がいくつとかいうクラス内での相対評価であった。ところが中学に入った途端、中間試験、期末試験、模擬試験が行われた。試験は計300名余の中での順位付けが毎回のように発表される。10番以内だの、100番以下になっただの毎回引き交々の日々を過ごすことになった。ゆとりなんかまったくない教育体制の頃だから、評価は常に辛辣でそのまま塾でも順位や点数に対する叱咤が起こっていた。このころは偏差値教育がまだ未整備だったため、点数と順位が全てであったように記憶している。そして冨丘塾の生徒としてどこの高校に行く可能性があるかをシビアに判断されてきた。試験で一喜一憂する暇もなく、1年生後半から2年生にかけては冨丘先生による進路の中間個別面談となった。それまでの成績を基に、先生は一人ずつ居間のある先生の部屋に呼んで面談となる。このころ私の成績は鳴かず飛ばずであり、点数のムラも多く面談直前の期末試験の成績はそれまでで最低の順位であった。

 こうして 先生の進路指導は始まったのである。親の期待は塾に通い始めたころから東高進学であった。または北高であった。先輩たちも公立なら同じように北か東かそれとも西か…と揺れて来たのを見てきたから、ついに我々がその番になったという軽い興奮もあった。このころの私は希望校である東と北の微妙なボーダライン上にいた。模試では全体の20~30番以内のアベレージなら東、30~50番以内なら北か西・・確率的にはそんな雰囲気であった。この時の先生の一言が忘れられない。「うーん‥お前は北かな…やっぱり」でも正直このころの自身の成績は北も少し危ないかなと思っていたので内心はほっとしたような、先生は少し高く評価してくれたのかな、というそんな安易な気持であった。
 そのとき突然先生が、「それはそうと、お前はどことなく先生向きなんだよな…」と、私の顔を見つめながらぽつりと言った。「はっ??なにそれ?高校受験と関係ないじゃん!」口にこそ出さなかったが内心そう思った。誰にも言われたことのない「将来何になりそうだ」的な発言には少々面食らった。もちろん同じ市内の商業高校、工業高校、農業高校に進む生徒たちはそれなりに職業を意識しての進学だろう。ただここにいるぼんくらは、何せ目先の高校受験が全てで、精一杯で、高校に入ったら遊ぶことしか考えていなかったし、ましてその先の先のことなんかてんでそっちのけであった。さらに「先生になるなんて冗談じゃない!まっぴらだぁ」そうも考えていた。しかし、当時は先生という職業の何たるかも知らなければ、また他の職業意識も皆無なのである。高校の次は地元の教育大でも目指せという意味なのかなと、勝手に想像しつつその日は部屋を後にした。現在、奇しくも私は大学で教員として働いている。人生いろいろ・・と言うが、こんな頃の鳴かず飛ばずの成績で意気地もなく、すぐに逃げ出しそうな私の何を見てそう感じたのか。今となっては言い当てたその理由をぜひ先生に伺ってみたいのだが…その機会は永遠に訪れないと思うと、今となってはやはり寂しい。

 この頃、初期の塾生のうちの何名かは既に去っていった。大半は親の転勤がその理由であったが、その代わりに新しいメンバーも何名か入ってきていた。入れ替えが起こっていたのである。その中に先生から「とうさん」と呼ばれていた小久保というものがいた。小学校6年の頃から加わった生徒である。腕っぷしが強く、また言葉の表現やしぐさがとても天然というか個性的であり、同じ国鉄アパートに住んでいたことや、同じくセキセインコを飼っていたことや、康之とプラモ仲間であったことなど共通の話題が多く仲良くしていた。既に知らない人も多いと思うが当時、連続猟奇殺人事件の犯人で「大久保清」なる人物が当時世間を賑わしていてその後死刑になったが、子供の単純発想から、すぐに彼を「清」と呼ぶものが現れたりして(本名は一裕)冷やかされるたびに爪でひっかくという荒業を用いていたので余計に話題に事欠かない人物であった。学校の教室の後ろに、『清の爪の餌食にならぬよう気を付けましょう!』という標語のような紙を貼ったものもいた。このユニークさゆえ、冨丘先生にもよくからかわれていた。ガタイも大きくまた動作が個性的でユーモラスだったので先生は「とうさん」と呼んでいた。ただ、とうさんは成績が思わしくなく、先生のビンタの常連でもあったが、康之と同様とても正直者で誤魔化しはせず、正々堂々と試験成績を表明し大いにビンタされていた。
 そんなある日、塾の開始が遅い時間帯だったので、普通は夕食後に向かうのであるが、小久保は夕飯を家で食べそこなったから、塾へ行く途中の先日開店したばかりの「中国飯店」で食べていくと言ってそのまま駆け込んでいった。私は呆気に取られたままひとり塾に向かった。しかし、いつまでたってもとうさんは現れない。開始時間となり先生が部屋に入って来られた。「ん?とうさんはどうした?」誰にともなく聞いたので私が「小久保君は夕飯食べそこなったので、お腹が空いて途中の中国飯店に寄っています!」と答えた。皆は爆笑し、先生もつられてくすくすと笑った。その時やおら玄関の戸が開き「せんせいこんにちは!」とハアハア言いながら駆け込む小久保の声が聞こえた。そして教室のドアが開くやいなや、再び全員が大爆笑、本人はきょとん。先生も遅刻を叱るどころか苦笑いしながら「とうさん!中国飯店で何食べてきたのよ?」と聞く始末。その答えがまたとうさんらしく「実は金が180円しかなくて、何でもいいからこれで食べさせて」と言ったら主人と奥さんが困った顔で「じゃあ…焼き魚とごはんとみそ汁あるから食べていきな」と言ってそれを出してくれたらしい。そこで急いで掻込んで180円を払って走って来たらしく、顔は真っ赤で坊主頭から湯気も立っており、だれかが「とうさんの頭 噴火している」と言ったので、この日は皆も先生もずっと笑い続けていた。
 その後しばらくの間、先生はとうさんと呼ばず「おい!中国飯店」と呼ぶようになった。この日の塾の帰りに小久保に聞いたら「実はさ すごく美味しかったんだ!」と嬉しそうに答えた。中華料理店の賄飯だったのか定かではないが、この時代ならではの良さ、温かさなのだろう。中学生の欠食児童がなけなしの180円を手に飛び込んできたのを、主人たちは優しく迎えてくれたのだと思う。その店は残念ながらすぐに閉店したので行く機会はついに訪れなかった。

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