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せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第3章

その6
 ここで先生のことについて知っている限りを書いてみたい。
風貌は芥川龍之介に似ていた、と思っている。他の生徒にそんなことを言った覚えは無いし誰からも聞いたことも無いのだが、私は勝手にそう思っている。有名な芥川の口元に手を当てた和服姿の写真の顔にセルの黒縁眼鏡を掛けたらそっくりだと思う。髪型も同じ。そこに少しだけ無精ひげを鼻の下に添えたら出来上がり。また、少し違うのだが、ソフトをかぶり和服を着てちょび髭で微笑んで写っている葛西善蔵の写真にも似たようなところがある。 葛西に関してはあの私小説に代表されるエキセントリックな生き方と先生の性格はまったく一致しないと思いつつ、どこかひたむきな熱を持った、それでいて人懐っこい感じが似ていないことも無いような気がする。常に病気がちで微熱が続いていたところも似ていた。ただし一番の違いは先生は酒はやらない。タバコは結構吸っていたが酒は全く飲まなかった。いずれにしても作家風なストイックさを持った雰囲気のする先生であった。

 私は個人的に国語の授業を通して先生からある種の文学論(小学校中学校というレベルを超えて)を学び取っていた気がする。時折遠くを見つめながら様々な古典や作家論や作品論などを説いていたので…その中身は今に至るまで事あるごとに反芻している。先生が文学の話を熱く語る時間は、私にとって幸福なひと時であった。

 先生の出自はそのころ少し聞いたのだがほとんど覚えていない。地元北海道の生まれだとは思うがどこの街なのかも知らない。ただ元々は小学校の教員であり、当時も親友である教員仲間が市内のとある中学校にいたと記憶している。なぜ塾の教師になったのか詳しくはわからないが、足の病気も原因だったような気がしている。その足の病気のこともなぜそうなったのかはわからない。病みだしてからある医者に言われて温泉療養に行って悪化したという話だけは先生から聞いた。おそらく誤診であろう。その後手術をしたが経過が良くなかったのか、膝が曲がらなくなったようである。時代的にその足の治療の難しさや様々な思いから塾教師になったのかは定かではないが、教員を続けることを断念するほどの「何か」があったのは間違いないと思う。ただ子供がそこまで問いただすことは出来ないから記憶も頼りなくそこまでであった。

 普段は片足を引きずりながら歩いていたが、外に出る時は片方だけ松葉づえをつくことが多かった。その病のせいなのか、本来虚弱な体質だったのか、先生はいつも体調が万全ではなかった。痩せていた。健康でバリバリという日は殆ど無かったかもしれない。体調の悪い日が多く頭痛薬のノーシンを欠かさなかったし、現在のように冷えピタの無い時代であるから、授業中も発熱や頭痛の日が多いためしょっちゅう手拭いで鉢巻をしていた。学校の帰りに先生に頼まれてノーシンを薬局に買いに行くこともあった。そして体調の悪い日は丹前を着ていることが多かった。北海道は真夏以外に気温はそれほど上がらないので、特に体調の悪いときは丹前を羽織って和服で授業をすることが多かったと思う。

 通っていた小学校は塾の真ん前なので先生は教員たちのことに詳しかった。常に、教員の評価をし、優劣をはっきりつけていた。そして、そのまま我々に感想を言っていた。特に教育にいい加減な教員に対しては厳しく糾弾していた。もちろん我々の前でだけの話であるのだが…その優劣は確かに当たっていて、とても人間臭い診断でもあり我々はその教員評価を素直に納得し受け入れていた。教員たちを揶揄するときに「ジャングル婆あ」とか「おっぱい」とか「まっさん」とか独特のニックネームを使うので結構笑わせられた。ただしそれらの教員評価は今振り返ってみても、的を射ていると感じられた。そういう空気の中で、いつの間にか皆が冨丘先生を好きになり尊敬していたのだなと今にして思う。

 もちろん小学校の先生方との思い出も数限りない。思い出に残る先生も一人や二人ではない。ただ義務教育として学校の教室で学ぶこと、時間ごとに職員室に戻られる先生の存在、時に叱られることはあるが生徒も多かったせいか一定の距離はあったと思う。やはり雇用された世界で生徒たちと接触するのも、それはそれで限界はあったはずだ。8年間も同じ教員と同じ学び舎で過ごすことなどありえない。まして職員室という狭い世界の中の人間関係に伴う確執やPTA、ひいては教育委員会との軋轢もあるだろうから、先生と生徒が全てという冨丘塾のようにはいかなかっただろう。クラス替えも教員の人事異動もない世界で、一人一人の生徒とじっくり長く付き合いながら目的を全うしたかったのではないだろうか。このような学校という組織背景の煩わしさから、冨丘先生流の教育論を全うするために、敢えて小学校教員を辞めて塾を開いた理由のひとつなのかもしれない。

 先生には娘と息子がいた。姉弟である。当時4歳くらいだった姉はたまに我々の部屋に駆け込んでくる。そのたびに先生はきつく叱って追い出した。当時2歳半くらいの息子は先生によくズボンの背中のひもを持ちあげられて空中遊泳のごとく吊りあげられていた。そのまま我々のいる部屋に連れて来られたりした。生徒たちは手足をばたつかせている息子のその様子を見て笑っていた。子供の可愛いしぐさと先生が微笑みながら遊んでいる様子にホッとする一瞬であった。その息子にはいつも様々な職業の話を吹き込んでいて、大成すればよいなと親バカぶりを発揮していた。その日も我々の前で「お前は大きくなったら何になりたいの?」と息子に問いかけたところ「ダンプ・・」「えっ?」「ダンプカー…」そのまま先生はばつが悪かったと見えて、早々に息子を連れて居間に引っ込んでしまった。皆は笑っていた。

その7

 先生は本当に子供が好きであった。厳しくしつけもするし叱っていたが、我々は先生の愛情深さを事あるごとに感じていた。こんなこともあった。ある初夏の頃であった。小学校5年生くらいの少女が塾の部屋の真後ろの窓から中に顔を突っ込んで「おいっ!」と大声で叫んできた。窓は初夏の陽気で開け放たれていたので、突然のことに我々は驚いて、特に窓の側の長机にいた3人は何が起こったという顔をしていた。この正子という名の少女は我々が通っていた小学校の特殊養護学級(様々な障害のある子がいた。当時はそう呼ばれていた)の生徒であった。普段我々は、この特殊学級の生徒をどこか小馬鹿にしたり、中にはいじめている生徒もいた。腕っぷしの強いわんぱくな特殊学級の生徒に喧嘩を仕掛ける輩もいた。正子はその中でも特に有名で、いつもおかっぱ頭に陽に焼けた顔、大きな目をギョロっと見開いて、口を大きく横に広げて笑いながらあちこちに出没していた。その正子が突然塾の窓の外から叫んだのである。そのとき先生は窓に近づき、普段は見せないような愛おしむような表情で話しかけた。「おっ!正子ちゃん 元気だったの?」「ハイ‼」「今日は何していたの?」「うーん…ハイ‼」それだけの会話を残して彼女はすぐに走り去ってしまった。先生は窓越しにその姿を眩しそうな目で追いながら微笑んで「たまに来るんだよな…たまにだけどな 明るくていい子なんだ」と独り言のように呟きながらまた黒板の方へ戻った。我々には無いものを先生に感じた一瞬であった。

 外の雑踏の音が良く聴こえる場所にあった塾教室なので、人の気配はこんな感じですぐわかる。ある時夕刊配達の声が聞こえた。小学校3年生くらいの男の子で、私のクラスの村野香里の弟であった。私は村野姉弟が家庭を助けるために新聞配達しているのを以前から知っていたが、塾の授業中に遭遇したのは初めてであった。先生はその時も「ご苦労さん!」と彼に声をかけ、その場を去っていった後に「あの子は偉いな…いつもがんばってるな」とぽつりと呟いた。こうやって塾に通わせてもらっている私と、姉弟で一生懸命家庭を支えるために働いている子と…良し悪しではなく子供心に恥ずかしいような哀しいような、それに重ねて先生の「がんばってるな…」の言葉が心に響いていた。

  毎年お正月明けには授業が無く、新年のご挨拶と各自がゲームを持ち寄り遊ぶということが恒例であった。これは中二の正月まで続いていた。この日の先生は最後まで穏やかで優しかった。我々が持ち寄るゲームと言っても、現代のような電子機器ではない。双六や学習雑誌の付録やボードゲーム、トランプであり、たまにABCゲームとかオセロ、将棋盤を持ちこむ輩もいた。昭和という時代を考えると、皆で一緒に楽しめるこれらの家庭用ゲームが一般的ではあった。そんなチープなゲームが所狭しといつもの勉強部屋に並ぶのである。非日常のようで我々の気分もハイになっていった。こういう時間を時々作ってくれた。先生はほとんどゲームに興じないが、たまたま私の持ってきたボードゲームの相手をしてくれたとき、あっさり先生が勝った。「お前 弱いなあ!」と笑いながら呆れられたが、それがとても嬉しかった。

  たった一度だけ、塾で授業の最中に具合が悪くなったことがあった。風邪気味であったのか急に寒気がしてきて気分も悪くなってきた。勇気を出して「先生、どうも調子が良くないみたいです…」と言ったら、すぐに足を引きずりながら隣家まで行き電話でタクシーを呼んでくれた。歩いて帰ろうと思っていたのだが、「早く帰って休みなさい」と外まで送ってくれてその場に来たタクシーに料金を支払い帰らせてくれた。車のドアが閉まり、走り始めた時にふと振り返ると、塾の前で先生がじっと財布を見つめながらポケットにしまうのを見て「無理させた…」とまた切なくなってしまった。そういう先生であった。

  子どもなので詳しいことは知らなかったが、当初の月謝(授業料)は一人月1500円だったと記憶している。つまり一学年12~3人として、小5から中3までが基本だから、全部で5学年と考えても月合計10万円足らずである。他に収入はあり得ない。先生はそれで暮らしていた。奥さんと幼子二人と。ある時、親たちがもっと値上げしろと先生宅まで押しかけて行き、先生に迫った。先生は根負けしてしぶしぶ一人月2000円にした。自分からは決してお金のことは言いださない。物質欲もなく大人づきあいも得意な人ではない。でもきっとお金には潔い人だったに違いない。そう思った。


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