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「いい天気」と言ってはいけない

定期的に思い出すドラマのシーンがあります。

といいつつなんのドラマだったか思い出せず、見つけられず正確なセリフは思い出せないのですが、気象予報士のお姉さんが生放送で「いい天気」という言葉を使って上司に怒られる場面が大まかに記憶に残っているのです。

その言葉を使ってはいけない理由は「いい天気」は人によって違うから。

晴れが嬉しい人がいれば雨が降ってほしかった人もいる。こちらが勝手にいいか悪いかを決めてはいけない。という内容でした。

ドラマの中だけではなく実際の現場でもそう言われているようです。

例えば僕はテンションが高くも低くもない時にエネルギッシュな明るい挨拶をされるのが苦手です。「北風と太陽」の北風役を、太陽が演じてしまうこともあるのです。


さっきコンビニに行くために外に出たらあいにくの曇りでした。

普段なら残念な気持ちになるのですが、雨でも晴れでもない灰色のどんよりは、引き出しを開けたら一番上に着たい色の服があった時のような、分かってもらえた気分にさせてくれました。

昨日落ち込むことがあったからかこの天気がちょうど「いい天気」だったのです。

帰り道、ふとあのドラマをおぼろげに思い出しこれを書いています。


1対1では相手の考えを想像して、想像を正しいと思い込まず確認することがコミュニケーションの基本であり全てだと考えています。

だけど出演者と視聴者のように1対nの関係になると想像はどこかで必ず外れるし確認もしきれません。だから「情報を届けるだけ」という意識を強く持たなければいけないのでしょう。

コメンテーターなんかは「自分の考え」を強く、時には決めつけのように発信することを求められますが、反論を承知の上で投げかけをする役割なのです。

それを番組という枠でパッケージしているからコメンテーターの意見さえも「情報」として視聴者に届けることができる。

1対nの関係においてはとらえ方を広く設計することこそ1対1になる秘訣なのではないでしょうか。


僕のようにフリーのミュージシャンは自分自身で「表現のバランス」を決めることができます。決める必要があるとも言えます。

「こんな出来事と気持ちがあったよ」と歌や生き方を情報として置いていくだけの活動もできるし、「これが絶対素晴らしい」とステージからガチガチの思想を押し付けることもできます。

表現とは受け取る側にとっては天気のようなもので、目が覚めてカーテンの外を見たら、仕事のために家から出たら、楽しみにしているバーベキューの日に天気予報を見たらもうそこにあるものなのです。

濡れたくなければ傘をさしたり予定をキャンセルすればいい。今日の僕みたいに曇りだからこそ優しい気持ちになれる人もいる。

大雨の土地に晴れろと太陽を持っていってもぐちゃぐちゃな天候になるだけでしょう。

それなら「雨に濡れなさい」「太陽を浴びて元気になりなさい」と押し付けるのではなく「今日は雨だよ」「明日は晴れるよ」とただそこに存在するような表現方法をとりたいと僕は思うのです。


あのドラマなんだったかなあ。知っていたらよければ教えてください。




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