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ドサクサ日記 8/29-9/4 2022

29日。
前日から喉がィガッとして不思議な体調なので、自宅にて抗原検査を試みたところ、見たこともないくっきりとした2本線が確認できた。慌てて仕事をリモートに切り替え、クリニックを予約。一度目の検査では陰性も、結果的に陽性の診断となり自宅静養がスタート。軽い風邪かなという感じだったけれど、夜中になって熱発。38度を越えて苦しい。身体も全体的に怠い感じがする。息苦しさはなし。

30日。
水状の、まさに鼻水と呼ぶべき鼻水が止まらず。咳も出はじめて酷い風邪をひいたときの咳の発作が時折起きる感じ。これを拗らせると咳喘息になってしまうので、警戒しながら仕事。合間に映画『Dune 砂の惑星』を観た。CGはもはやため息が出るクオリティで、続編が楽しみ。『Dune』というと、村上ショージを思い出す。日本人が死ぬほどこだわる英語の発音で言えば、これを超えるDuneはなし。

31日。
咳が酷くなった。時々、痰も出る。以前に菊池成孔さんの日記を読み、俺も巨大なアマガエル状の塊が体内から排出されるときが来るのかと戦々恐々としていたが、菊池さんの記述よりは軽症で安心している。気管支が弱いので、そこのところがしばらくは心配。リモート仕事の空き時間で、なぜか映画『マスク』を観てしまった。ジム・キャリーとキャメロン・ディアスがハリウッドらしくて最高だった。『マスク』を観るのは何度目だろう。いつ観ても人生に置いて特段の学びになるようなことは何もなく、純度100%の暇つぶしエンターテインメント映画だなと思う。ただ、俺はこの映画がとっても好きで、テレビ放映も含めて5回は観ているはずだ。時間をドブに捨てたような気もするが、底抜けに明るい気持ちになる。暇つぶしに真剣になれるのということは、人類にとってとても豊かなことだと思う。

9月1日。
鼻汁の源泉に指定されていた右の鼻の穴からの汁の漏洩は止まり、左が新たな汁の湧き出し口として指定されていたが、今朝方青っ洟に変わった。薄い膜のような粘液が張り付いて喉の奥が痒い。ゆえに、痒みを抑えるため反射的に咳をしてしまう。鎖骨同士が落ち合うあたりを触ると少し痛い。体温は平熱。食欲が妙にある。それはともかくとして、自主的に隔離を続けなければいけないのが辛い。他の人のリスクを考えれば仕方のないことだが、屋外に出られたらどれだけ気分が楽か。コロナ以前は、これくらいの風邪ならばぶっとい注射を打ってでも仕事に行っていた。しかし、それは本当に幸せなことだっただろうかとも思う。生活やビジネスに尻を叩かれて、ゆっくり休めなかっただけとも言える。そう考えると、行動制限は辛いけれど、風邪のような感染症でもゆっくり休むことを容認し、その期間の収入が補填されるような社会のほうが僕たちは生きやすいのではないかと思う。

9月2日。
喉の奥に粘っこい体液が鎮座して動かない。それを退けたくて咳き込むが一向に取り除かれる気配がない。こういう場合は咳をすると、咳が咳を呼び咳地獄(持病とも呼ぶべき咳喘息)に陥ってしまうので咳を極力我慢して過ごした。コロナの恐ろしさその2としては、何か体調に異変があるととても不安になること、そして、その原因がコロナなのではないかと考えてしまうことかもしれない。喉以外はかなり楽になったが左の首が痛い。寝違えたのか、コロナの後遺症か。後者の可能性が人生に現れることの意味。症状はそれぞれ違う。当たり前だと思う。音や色彩だって、本来はそれぞれ別のものを体験していて、どうにか言語で統合しようとしているのが人類なのだから。痛み、苦しみだって同じだ。無数の比喩でどうにかシェアしている。多くの人がなるべく穏やかであってほしいなと願う。俺も含めて。

9月3日。
相変わらず咳。少しずつ、咳と共に吐き出す息の咳密度が下がっているような気もする。あと少しの辛抱なのかもしれない。暇なので通販で取り寄せてもらったラーメンを食べる。偶然読んだ店主の日記がとてもいいなと思ったからだ。成功したいが、働く人まで不幸にしてどうする、みたいな逡巡が良いなと思った。経済的な成功と幸福は等号で結べない。しかし、成功したいという少しのスケベさを俺は押しつぶすことができない。世界中の誰にでも見つけてほしいけれど、うっかりレディ・ガガくらい売れたらストレスで死んでしまうだろう。誰にも見向きもされないとしたら落ち込む。そういう矛盾もきっちり抱えている。せめて活動がどこに振れても、自分の音楽に関わる人たちが必要のない苦痛を精神や肉体に抱えなくていいように、バンドを朗らかなコミュニティとして機能させたいと強く思っている。

9月4日。
咳がなかなか止まらない。時間だけがたっぷりあるので、大友良英さんと柳沢英輔さんの対談をwebで視聴した。こちらの都合で中座しなければならなかった部分もあったが、貴重な映像を見たり、音源を聴いたり、話を聴いたり、演奏を聴いたりして素晴らしい時間だった。人間は言語のなかに存在しているので、もはや野生に戻ることができないという文章を読んだことを思い出した。「野生」もまた言語であるため、私たちはすべてを脱ぎ捨てて素っ裸の野生には戻れない。言語のマトリョーシカ。人間を剥いて剥いて剥いて剥いていっても、全部言語である。私たちが人間であることは言語が担保している。正真正銘の野生と呼ぶ何かにたどり着けるならば、そいつはもう戻ってこれない。それは言語の外。自然でも野生でもいいのだけれど、我々はエンパシーみたいな想像力でそこに立つ以外はないということ。