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ドサクサ日記 6/29-7/3 2022

27日。
若いバンドマンと話す。素敵な人たちで、とても楽しかった。音楽や詩作に限らず、創作は誰でもできる。思い立った日からはじめることができる。「なんとなくいい」みたいな感覚に身を浸すのは楽しい。ただ、どういうわけかそれだけでは、作り続けることが難しくなってくる。というか、継続するための動機やエネルギーと、それでなければならないという退くことも引くこともできない理由を身の内に見つける必要がある。「この人は、この表現をせざるを得なかった」ということは、言語化しなくてもちゃんと伝わる。その表現がその人にとって切実なものなのかについて、受け手の私たちはなぜか感じることができる。難しいのは、自分が表現する側に立ったとき、それを客観視する術が多分「ない」ということだと思う。その切実さが、十分条件ではないというのも難しさを際立たせている。

28日。
参議院選挙がはじまった。何かひとつの正解があるようなイメージで選挙に向かうと、誰に投票していいのかわからなくなってしまう。不正解になるくらいなら、無回答という選択になってしまうだろう。しかし、民主主義は、それ自体が正解ではなく、現状でもっともマシな政治体制に他ならない。多くの市民が投票しないならば、民主主義すら終わってしまう可能性が高いということを忘れないでいたい。

29日。
日々の生活のなかで、狭量な自分にふと出会って動揺する。誰かの生き方や表現に疑問や、ともすれば嫌悪に近い気持ちを持ったりする。でも、よくよく考えればその人にもその人なりの考えがあり、人生があり、豊かさがある。何をもって誠実とするかも人それぞれだろう。踏みつけてはいけないいくつかの人間らしさを蹂躙することを除けば、何をやったっていいのだ。俺もそうして他者から許される。

30日。
なぜかふと、世界中で推されている電気自動車のことを考える。リスクの分散化を考えれば、ハイブリット車が一番良いはずだ。電気が切れたら、燃料がなくなったら、そういうときのリスクは大震災のときに思い知った。活躍したのはハイブリット車だったと記憶している。何にせよ、俺たちの時代はベストミックスを見つけることを科せられていると感じる。ひとつに偏り依存することの恐ろしさ。

7月1日。
当たり前だが、誰が誰を支持するのかというのは、その人の権利である。とてもシンプルなことだ。その上で音楽は、それぞれの主義や思想が違っても、何かを分かち合うことができるのだという可能性を見せてくれる。断崖絶壁で隔たったような距離を感じる人たちとも、ある一点ではシェアできる感覚があるということ。音楽や創作物は、社会が片足をかける徳俵になり得ると俺は思う。

2日。
神戸、奈良と素敵な時間だった。100年会館から出るとムーンとした熱気。昨今はサウナがブームの直中あるというのはいろいろな媒体から伝わってくることだけれども、ほぼ無料サウナではないかと感じるくらいの湿度だ。ベランダに蚊帳を張り、水着一丁で飛び出る。ブワーっと汗をかいたところで風呂場に張った真水に浸かる。俺がサウナーならそうするだろう。しかし、俺はサウナーではない。残念。

3日。
表現というのは、孤立無縁の場所から行うことだろう。世界と一対一で決別する気概を持つこと。そこから歩んで行けば、いろいろなことがすっきりとする。理解してくれる他者との関わりの、その接点の手触りも自ずと変わる。「ダサい」みたいな相対的な言葉では、表現者を傷つけることはできない。そういう言葉で傷つく人があるならば、何かを創ろうと思ったときの、その決意を思い出して欲しい。