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日記 11/8-14 2021

8日。
程よい田舎に越したい。そこで民家などをスタジオに改築して、音楽活動の傍で菜園いじりなどをしながら暮らしたい。都会は家賃が高い。それだけで全エネルギーのいくらかを奪われている。知的興奮を得られる機会が多いというのが都会の魅力のひとつだが、もう少しゆっくりと時間や人生を咀嚼したいという思いが強まっている。都会生活者のありふれた願望だと笑われても、幸福は相対化できない。

9日。
タコスが偏執的に好きで、リハーサルの前室にあるとお腹が空いていなくても食べてしまう。最初のメキシコツアーの折、それはもう大変にメキシコ料理を楽しみにして行ったのだが、長いワールドツアーの最終公演ということもあり、現地のスタッフの愛と気遣いは日本料理に帰結した。次回では念願叶って、メキシコシティの本格タコスを食べた。アメリカナイズドされていない味で最高だった。

10日。
若さ(未熟さとも言う)が重宝されるのはどうしてだろうかと考える。ひとつには何の衒いもなく間違えられることなのはないかと思う。表現における成功体験は恐ろしい。どちらに行けばより作品らしくなるのか、みたいな理路で行き先を決めてしまう。しかし、必要なのは無鉄砲な跳躍だったりする。もちろん、失敗したら痛い。ただ、そうでないと得られないこともある。老いて尚、跳ぶための思考。

11日。
札幌でコンサート。2時間半、アドレナリンが血管を駆け巡り、肺は倍に膨れ上がる。楽屋で正気に戻れば、下り坂を全力で駆け抜けたときのように、身体も精神も関節からガクガクになる。心地よい疲労などは遠に超えて、どっぷりと脳まで酢酸のような液に浸かり、ギジギシと錆びていく。そういう夜は何故か麦の汁を発酵させて炭酸を足したドリンクの効きがよくなる。考えた人を表彰したい。

12日。
音楽制作において、どの段階を作品の完成とするかは難しい。ミックスが終わった段階で各楽曲は着地済みとも言えるが、メディアや配信サービスに合わせてサウンドを調整する。それをマスタリングと呼ぶわけだけれど、楽曲群をひとつのテクスチャーや意思にまとめようとする決意がないのならば、機械的で従属的な性質の作業になってしまう。いくらかの束縛を踏まえて、自由であること。

13日。
トイレを借りに立ち寄った量販店でばったりと友人に会う。とても不思議なことだと思う。よくよく考えれば、世の中、そういう出会いが無数にあり、出会いと関係こそが自分を作っていると思う。確固たる自己像を自らの力だけで定めるのは不可能だ。というか、徹底的に他者との関わりこそが私である、と俺は思う。俺一人では赤子のまま、言語を習得できなかった。そう考えれば、無数の死者も私なのだ。

14日。
「同じことを何度もできるのがプロだ」という言葉を何かのTV番組で聞いたことがある。料理人に対しての言葉だったように記憶している。近所の惣菜屋というか弁当屋は、同じメニューでも味にブレがあってとても面白い。盛り付けの量も適当な感じがする。しかし、その源泉が怠惰なのではなく、ある種の大らかさによるものだと感じられるので、こっちも大らかな気持ちで食べられる。美味しい。