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令和5年夏、熱狂甲子園塾!(その7)

もっと皮肉めいた考察

古い日本の歴史へ

慶應義塾高校の優勝は、107年ぶりのことだという。それゆえ、前回の優勝経験者は存命でないとはいえ、全国の慶應中高のOBが結集し興奮していた。各界に著名人を輩出していることもあって、影響力が大きかった。次第にマスメディアの煽りが加わり、さらに「慶應」というだけでおそらく大学の卒業生などまで便乗して、甲子園内外で大騒ぎになった。
決勝戦、グラウンドでは慶應義塾高校の選手と監督とが令和の時代の新しい高校野球を今にも完成しようとしていた。しかし、その一方、スタンドでは明治以来のもっとも古い学閥が復活していたのである。その対照が、皮肉なものに感じられた。
今大会で、慶應義塾の「塾歌」を何回も耳にした。印象的な出だしの後、途中の旋律は平板ながら、終盤は厳かに盛り上がる。重みのある歌詞と合わさって、感動を覚える。作曲者を見ると、信時潔とあった。――今の若者は、「海ゆかば」をどう聞くのだろうか。過去に私は、同じく信時潔が作曲した校歌を持つ学校に勤めた。校歌が歌われるたび「海ゆかば」が気になったが、忙しない学校生活の中で生徒とともに戦争を考える余裕は到底なかった。
慶應が107年ぶりの優勝を喜ぶなら、建学の時点にも遡って福澤諭吉の教えを思い出すべきであろう。そして、そこと現在とのちょうど中間に位置する、戦争の苦い歴史を見つめなければならないだろう。今年、8月15日は雨天のため大会が中止になり、甲子園は黙祷を捧げられなかった。終戦の日のの黙祷には、戦前と戦後が同じ日本なのか、私たちが自らを問い直す意義がある。

エンジョイ・ベースボール

慶應義塾高校の躍進は、同校のモットーである「エンジョイ・ベースボール」を世間に広く知らしめた。簡潔にいえば、エンジョイ・ベースボールとは、面白おかしい楽(ラク)な野球ではなく、猛練習の中でも生徒の主体性を尊重し、生徒が自分たちで決めたことを楽しみながらする野球である。それは、森林貴彦現監督の専売ではなく、慶應野球部の伝統精神であり、高校野球の一つの理想形であると私にも感じられた。同名の新書が前監督によって書かれており、森林監督の著書と同様にとてもよい本だった(品切れになっていたが、早速復刊されたようである)。
そういうエンジョイ・ベースボールを体現する慶應高校だから、ナインはたくさんの笑顔でプレーしていた。ただ、全国大会である甲子園に出てくるチームは、全体として笑顔が多いというのは現在のトレンドである(その2参照)。私は、慶應よりも仙台育英を応援していたということもあって、仙台育英のエース・髙橋投手の笑顔が一番好きだった。
だが、一発勝負で勝ち負けを決める高校野球において、地方大会で敗れたチームと、聖地・甲子園に出場することができたチームとでは輝きが全く異なる。その中でも、決勝戦に出場した2チームの選手は、本当に幸せ者である。そして、そんな強豪野球部の中でも、たとえばエースとよばれるポジションにいる選手は、高校での野球生活が最高の充実度を誇っているはずである。意地の悪い見方をすると、それほど「選ばれた」存在の高校生の笑顔は、輝いていないはずがないのである。
甲子園に出場したチームにあっても、ベンチで座ったままの生徒がいる。もちろん、ベンチに入れずスタンドで応援する生徒も何十人もいる。レギュラー選手、試合に出られる選手との温度差は当然あるだろう。試合に出ないのはやはり面白くないという生徒がいてもおかしくない。試合に出て、脚光を浴びる選手以外の選手たちの本当の思いは知りえない。(ちなみに、仙台育英の須江監督は、現役時代は記録員として甲子園でベンチ入りしている。学生コーチ」として部員を怒鳴りつけていたそうである。)
少なくとも私にとっては、チームスポーツの部活動で全員がエンジョイできる姿を想像するのが難しい。かつて私は、高校教師としてある運動部の顧問をしていた。まったく運動部経験のない私は、練習メニューからチーム編成まですべてを生徒に任せていた(これは、エンジョイ・ベースボールにおける主体性とは似て非なるものである)。ある年のあるとき、試合に出られないと悟った生徒が退部していった。私には、それをどうすることもできなかった。愚かだった私は、その生徒の真の思いを推し量ることができないまま、残りの部員で県大会出場を成し遂げ、それを喜んだ。むろん、部員のすべてが試合に出たわけではない。私は、当時の私が恥ずかしい。
日本の高等学校のチームスポーツの部活動では、高体連主催の対抗試合があり、勝利を目指すことが目的になる以上、部員をみな満足させることなど、顧問によほどの力量がないと不可能である。教員として、日々の学級経営も、授業すらもままならないのに、運動部運営などできるわけがない。だから、私は部活動の顧問はやりたくない。これは、私のわがままではなく、教育者としての良心である。

データ重視野球に関して

現在の高校野球は、データ分析なしでは勝ち抜けなくなっている(と信じられている)。あの大阪桐蔭高校の西谷浩一監督が、近年の大会の勝利監督インタビューでしばしば「データ班」に言及し感謝の言葉を述べていたのが印象に残っている。私は、どちらかといえば「データ」の取り扱いが苦手な文系アナログ人間であるため、現在の高校野球がデータを偏重する姿には、ときに胡散臭さを感じてしまう。
今どき、自校の選手の能力や、他校の選手のプレーの特徴は詳細に数値化される。しかし、それは極端にいえば、人間を数字として見ているのである。「最終的には人間力だ」とは慶應義塾高校の森林監督の言葉だが、その「人間」は、高価な機器を揃え、様々な角度から人間を数値に置き換えて分析し尽くす、といった冷淡な機械論的人間ではあるまい。
仙台育英高校の須江監督は、今大会終了後、サインがばれていたのかもしれないと漏らしていた。また、森林監督は、著書の中で、サインを盗むのがスポーツマンシップに反すると強く非難していた。だが、部外者の私からすると、相手校のデータを見るのもサインの解明と似たようなものに感じる。データを相手校の投手のデータに限定してみるとわかりやすい。「こそこそサインを盗まないで正々堂々と戦え!」と主張するのなら、「こそこそデータを集めないで正々堂々と戦え!」と反論されるのではないか。
もちろん、野球は勉強とは違うのだから、いくら相手投手のデータを頭に入れていても、そもそも練習で鍛えていなければ打てない。だが、今のようにデータ重視の戦略が前提になってしまうと、学校間の公平性がますます保てない。たまたま、総合力の劣るチームに大エースが一人いたとしても、強豪相手にデータで丸裸にされていると、もはや勝てる見込みはないだろう。常連の私立校と弱小の公立校とでは設備にかけられる予算に差がある。お金ではなくて創意工夫の問題だと反論したくても、部員100人の学校とチームが作れないような学校とでは人海戦術にも差が出てくる。
そこで、私は考えた。高校野球が、スポーツマンらしくフェアに戦うためにら、お互いのデータをオープンにしてはどうか。データは情報に過ぎないので、それの量を競うことに意味はない。だが、データには質があり、肝心なのは、良質なデータとは何かを考えることである。また、そのデータを活用するのは人間であり、データをどのように取捨選択し分析するかが課題である。そうであれば、いっそ、データは収集・分析の方法も含めて共有してしまえばいい。そうすると、勝利第一主義でなく、野球を通じた学習、お互いの成長にデータが貢献することができる。
そんなことを夢想してネットを調べていると、なんと、現役時代に自分で分析ソフトを開発し、さらに他の高校に無償で提供している高校球児がいた! その人は現在は同志社大学に通う、田中博土(はくと)さん。世の中には、面白い人がいるものだ。彼の方法が最良かどうかは別として、高校野球界に一石を投じる行動であることは疑いない。
いずれにしても、一つも負けられない戦いの中でデータ収集も勝利に不可欠の要素になっている現代野球にあって、金がなければ野球ができないといった風潮になるのは好ましくない。その意味で、今私たちは、水島新司さんの高校野球漫画『ドカベン』に学び直すときかもしれない。『ドカベン』には、主人公の山田太郎をはじめ、貧乏そうな球児、チームが多く登場する。そのせいか、個々の登場人物の能力は超人的であっても、現代にはないハングリー精神が全般に満ちている。あるいは、ちばあきおさんの『キャプテン』もいい。こちらは中学野球漫画だが、いかにも金持ちの坊っちゃん野球の青葉学院を弱小の墨谷二中が倒すところに醍醐味がある。いずれも、生活臭の漂う漫画である。同時に、土の匂いもする。よりいっそう努力が似合い、データ野球も打ち破ってくれそうな人間的な強さが感じられる。
野球がスマートになるばかりで貴族のスポーツのようになってはつまらない。野球は「野」球、原点は、汗だくで泥にまみれて白球を追うスポーツであろう。


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