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【掌編小説】葡萄の顔

「あなた、和子から葡萄が届きましたよ」

 今年もこの大イベントがやって来た。大イベントなどという言い回しは、端で聞けば大袈裟かもしれないが、葡萄が大好物な私にとっては万博並みの大イベントなのである。
 毎年、九月の半ばになると山梨で有機栽培の葡萄園を経営している娘の和子から葡萄が二十房ほど送られてくる。
 私と同じ血が流れているためか、和子も葡萄が大好物で、その好きが高じて葡萄園を始めるに至った。和子から送られてくる葡萄は酸味、甘味共に私好みの味だ。和子は自分の味覚に調整しながら作っていると言っていた。それが本当ならば私の味覚と娘の味覚は同じということになる。こういうところで遠くにいる娘と親子を感じることができるのも、私が大イベントと呼ぶ理由の一つだ。
「早速、洗って食べよう」
 有頂天に私が言うと、妻はくすりと笑って台所へ直行した。
「なんだ。何かおかしいのか」と妻に尋ねると、またくすりと笑う。
「ええ、いつも厳格なあなたが、葡萄を前にすると」
「するとなんだ」
「欲しいおもちゃを見つけた子供みたいに目をキラキラさせて……はい、お待ちかねの葡萄ですよ」
 食卓に置かれた葡萄は、洗った後の水滴によるものか一粒一粒が黒真珠のように輝いている。
 葡萄を前に興奮していた私だったが、がっついてしまえばせっかくの葡萄が台無しだと 思い、何度か深呼吸をし高ぶる気持ちを落ち着かせた。
 少し冷静になってきたところで、イスに手をかける。そして、ゆっくりイスを引き、おもむろに腰をおろす。その数秒間は、私を取り巻く空間全体が切り取ったスローモーションの世界のように、緩やかに流れた。興奮を鎮静させるには最適なリラックスタイムだ。
 遂に葡萄が私の目の前にきた。私は枝の色から粒の光沢まで眺め入り、葡萄の外観を観賞した。
 目を満足させたところで、いよいよ葡萄を食す時である。
 一番光沢の強い粒に手をのばし、丁寧にもぎ取った。その粒をつまんだ私の指を、粒をゆっくりと口元へと運んだ。

 それに気付いたのは、食べる寸前だった。

 この葡萄を食べてはいけないような気がした。決して食べたくないわけではないのだ。ただ、その粒を食べてしまうと何か災難のようなものが起きるのではないかと寒々と感じたのである。
 葡萄を前にし興奮しすぎたのかも知れない。
 目を瞼がこそげ落ちるほど強く、何回も擦った。だが、目の前にあるそれに変化はなかった。それどころか、目を擦る前よりもそれがはっきりと見えた。
 私は遂に恐怖まで感じ始めた。
 なぜなら、その葡萄の粒が和子の顔に見えて仕方なかったのである。
 咄嗟にその粒を葡萄が載っていた皿の縁に戻した。
「あら、いらないのなら私が頂きますよ」
 妻はそう言うと軽い手つきで私が戻した粒をつまんだ。
「あっ」と私が叫んだ時は、すでに遅かった。妻は粒を口にしていたのである。
 妻はきょとんとした顔 で言った。
「え? 何?」
 その粒は和子の顔そっくりだったと伝えようとしたが、今伝えたところで妻が信じてくれるはずがない。第一、和子の顔に見えたからといって食べてはいけない理由にはならないし、もう食べてしまった今、私の考えた理由を伝えたところで遅すぎる。
「いや、何 でもない」
 かぶりを振って、私は葡萄に手をのばした。今の奇妙な粒のことを忘れ、葡萄を味わおうと思った。
 しかし今度は、そこにある葡萄の粒は全てが知り合いの顔に見えたのである。
 いとこのシゲさん。
 姪の幸恵ちゃん。
 元同級生のマー君。
 和子が送ってくれた他の房ももしやと思い、 台所に走った。
 私はこれまでにない不安と恐怖に襲われていた。何かとんでもない災害が誰かの身に起こる気がしたのだ。
 見事なまでに、他の葡萄の粒も全て知人の顔そっくりだった。
 私は叫んだ。その恐怖から助けを求めて大声で。
「おい、ちょっと来てみろ」
 妻は私の声に一瞬肩を揺らし、すぐに不安げな表情で私の元へ向かってきた。
「何ですか、そんな大声で」
 私は恐怖で震えた手で台所に並ぶ葡萄を指差した。
 妻は葡萄を見たが、「どうかしたのですか」と狼狽えるばかり。
「これだよ、これが見えないのか」
 私は葡萄を一房つかみ、妻の眼前に突き出す。
 葡萄をつかむ私の握力は、自分にまとわりつく恐怖に必死で堪えようとしているためか、尋常ではない強さであった。
 しかし、妻の表情に変化はない。不審な目で私のつかんでいる葡萄を見て、その目をそのまま私の顔に向けて言った。
「どうしたんです、ただの美味しそうな葡萄じゃありませんか」
 妻は私の言動を聞き、いかにもわけのわからないであろう顔をしているが、私はそれ以上にわけがわからなくなってしまった。
 数秒の戸惑いはあったが、妻に話しが通じない理由に二つの仮説を立てることができた。
 非常に単純である。 妻には葡萄の顔が見えないのか、私だけに葡萄の顔が見えているのか。故に解明するのも非常に簡単だ。 妻以外の人間にこの葡萄を見せ、粒が人の顔に見えませんかと尋ねればいいのだ。
 隣家の小野さんに尋ねてみよう。今の私には共感する人間が必要だ。そうすれば私にまとわりつ く恐怖心も 少しは和らぐであろう。
 小野さん一家は、小野さんと、その奥さんと、あとニ、三人学生の子供がいたはずだ。これだけいれば一人くらい共感してくれる人がいるだろう。私にだけ 葡萄の顔が見えているなんて仮説は、考えただけでも吐き気がする。そんなことは決してあってはならないのだ 。
「ちょっと行ってくる」
 葡萄をつかんだまま玄関に走った。走った瞬間、何か得体の知れないものの視線を感じ、私の恐怖心はさらに増した。恐怖で手が震えてドアノブをつかむのに少々手こずってしまったが何とかドアを開けることができた。どこ行くんですか、と妻に聞かれたが恐怖で返答できるような状態ではなかった。
 私が玄関から裸足で外へ一歩踏み出したその時だ。

 プルルルルルル……。

 家の電話が私の足を止めた。電話など無視していけばよいものを、私は電話の方を振り返り怯えた表情で電話を凝視した。嫌な予感がして仕方なかったのだ。
 私は電話の鳴る音にさえ恐怖を感じ始めた。早く電話から離れたい気持ちがあるのに、嫌な予感が逆に私の足を止めていた。
「早く出ろ」
 電話の音を鎮めたいあまりに、胸のざわめきも伴って妻に怒鳴り声をあげてしまった。
「そんなことで怒らなくても……」
 妻は突然の怒鳴り声に怯えて、涙目で声を震わせる。
 妻は鳴り響く電話の音とは逆に、静かに受話器を取った。
「もしもし……はい、さようでございますが……えっ」
 妻は何かに驚き、そして慌てていた。
「はい……わかりました、今そちらに」
 妻は受話器を置き、先ほどの怯えた涙目とは違う泣きそうな表情で私の方を向いて言った。
「和子が、葡萄園で雀蜂に刺されて……」
 私は妻の話をそこまで聞いて、裸足で玄関を出た。
 和子の顔にそっくりな葡萄の粒が脳裏を駆け巡る。和子が雀蜂に刺されたことと、和子の顔に似た葡萄の粒を食べてしまったこととは明らかに関係があると確信した。
 私は車に乗るなりすぐに和子のいる葡萄園へ猛スピードで発進させた。
 速度違反など関係ない。いち早く和子の葡萄園に行かねば。そこへ行けば全てが解明するかもしれない。この葡萄の顔が何なのかがわかるかもしれない。

 今朝、夫にコーヒーを入れてやった。
 夫に朝食を作ってやった。
 夫の好物である柿の種を買ってきてやった。
 夫に日本茶を入れてやった。
 夫に昼食を作ってやった。
 これら全てに幻覚剤を入れてやった。
 厳密に言えば、リゼルグ酸ジエチルアミド、無味無臭で幻覚作用の強い麻薬だ。
 夫は夜になると決まってどこかへふらふら飲みに行く。どこへ飲みに行ってるかは、ポケットから出てきたキスマークのついている名刺から見当がついた。
 幻覚剤が回ってきた頃、夫は葡萄に何か見たらしい。その様子を見て私は涙を流して笑いを堪えた。
 しかし一番の笑い所で夫への怒りを睨みに表してしまった。私の視線を感じたのか、夫が怯えてるように見えた。その姿はへたな喜劇よりも何百倍も笑えた。
 和子が雀蜂に刺されたなんて電話は嘘だ。自宅へ携帯で電話をかけて一人芝居を打ったのだ。和子の危機とあらば夫は私のことなど忘れて、車で和子のところへ車を飛ばすだろう。
 今、夫はどこを走っているのだろう。いや、もう走っていないのかもしれない。どこかの高速道路で幻覚に怯え、逆走し事故死した頃ではないだろう か。
 夫が死ぬ前に見たものは何だろう。 小野さん一家のような仲睦まじい温かな家庭を目指していた私ではなく、共に酒を飲み戯れたピチピチの若い女を死に際に見たのだろうか。
 構わない。夫にとっても、そっちの方が本望だろう。

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【罪状】景表法違反

和子の農園が農薬規定量を著しくオーバーしていたにも関わらず、有機栽培とうたっていたため。

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