【掌編小説】クローバーの妖精
ある土曜日の晴れた午後。
盲目の老人は、白杖と手すりを頼りに展望台広場へ続くなだらかで長い階段を上り終えると、誰かの気配を感じた。
「先客がいましたか」
その柔らかい声に、広場の真ん中のベンチに腰かけている初老の女性が、ニつに縛った栗色の髪を揺らして振り返る。彼女はさびた小さな赤いお菓子の缶をひざの上に載せている。
老人は自分の目の代わりに、女性から見えるものを尋ねた。
「どうですか、ここの見晴らしは」
女性はそこから一望できる街の景色に視線を戻して感嘆する。
「素晴らしいです」
「川は流れていますか」
「ええ、とても優雅に。鉄橋の上でも、たくさんの人が足を止めて川を眺めています」
「そうですか。鉄橋に変わりましたか」
そう言いながら老人は、コンクリートで舗装された地面をカッカッで白杖を叩きながら、ゆっくりと前へ進む。白杖がベンチに当たると、彼は背もたれや座面を撫でながら驚きの声を漏らす。
「おお、ベンチまで」
女性は驚くその訳を尋ねた。
「ベンチがどうかしたのですか」
「いえね、私が子供の頃にはなかったもので」
老人は少し寂しげな笑顔で答えると、女性の声が聞こえる方に顔を向け続ける。
「お隣、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
穏やかな返答に男性は軽く一礼し、ベンチの位置を手で確認しながら慎重に腰を下ろす。ふう、と疲労のため息をつく老人に女性は尋ねる。
「お一人でここまで上られたのですか」
「ええ、手すりにしがみ付きながら何とか」
笑い交じりに言うと、老人は静かな口調で続けた。
「四十年来ないうちにここも随分変わってしまった。まさか、ここが展望台になっているなんて思ってもいませんでしたよ。上りやすい階後に、この頑丈な足場。ベンチまであって、おそらく私の目の前には転落防止の柵でも設置されているのでしょう。下の入り口の辺りも改装されて、橋も架かっていなかった。ほら、この入り口、綺麗に滑り止めまで付けられた斜面になってるでしょう」
「ええ」
「昔はあそこら辺にね、この高台を囲むように小川がせせらいでいたんですよ。それに架かる橋です。あ、橋って言ってもただの板切れなんですけどね。子供だった私が足をかけた時でさえミシミシいってたぐらいですから、相当脆かったんでしょう。私、背が高かったもんでね、橋を渡らずにいつも小川を飛び越えいましたよ。怖かったから」
老人はひとしきり思い出を語ると、ハッと
気付き申し訳なさげに体を縮こめる。
「すみません、なんで初対面の人に私は昔話ばっかり……」
「いいえ、聞かせてください。興味あります、そのお話」
微笑む彼女に、老人は尋ねる。
「お住いはこの辺?」
「ええ、実はこの広場を下ったすぐ向かいに」
老人は大きく相槌を打った。
「ああ、ここに来る時にタクシーで運転手が言ってましたよ。二十何年か前、ここの向かいにそれはそれは大きな、セレブが住むようなお屋敷が建ったって」
冗談交じりに言う男性に、女性も笑って応える。
「ここが好きで越して来たんです。近所なので毎週一回はここのベンチに座って街を眺めています」
彼女はその言葉に小さく「幸せな日々です」と続けた。
柔らかい風が吹いた。風の香りが春のものなのか、彼女のものなのか老人にはわからないが、心地良かった。
「あなたも、ここがお好きなんですか」
彼女はその風に似た柔らかい口調で訊いた。
「はい、それはもう特別な……」
明るい言葉は尻すぼみになり、老人の表情 には徐々に悲しさが混ざっていく。
「 正直、誰もいないと思ってここに来ました。いや、誰もいなければいいと」
僅かな沈黙の間、女性は老人の顔を見つめ続けた。彼女はそのまま静かに言う。
「私、ここを去った方が」
老人は食い気味に笑顔で返す。
「いえいえ、いいんです。むしろ今あなたがいて下さって良かったと思っていますので。何十年もできなかった昔話を話すきっかけを下さった」
女性はその感謝の言葉に何も答えられず、ただ静かに微笑む。だが、彼女の顔からはその笑みは少しずつ消えていった。
景色ではなく空を眺めながら老人に訊いた。
「ここにお一人で来て、何をするおつもりだったのですか」
老人は言葉を詰まらせて答える。硬い笑顔で感情をごまかしながら。
「身を投げようと思っていました」
女性は老人に驚いた表情を向けた。老人は続ける。
「私、この年なのに女性を想ったことは二度しかないんです。四十年間も子供の頃の初恋相手を想っていたのですが、私は数年前とある別の女性にプロポーズされてそれを受けました。初めての経験だったからか、お恥ずかしい話、その時からその女性に夢中になりまして」
男性は段々と俯きかけていたその顔を上げて言う。
「しかし、結婚詐欺でした」
女性は黙って、眼差しを老人に向け続ける。
「私、奪うだけ奪われてからやっと気付いたんです。ああ、これは違う女性にうつつを抜かした天罰が下ったんだと。今の私には何もありません。だから、その初恋の女性への懺悔の意味も含めて、彼女と出会ったこの高台で、思い出を抱いて死のうと、ね」
また春風が吹いた。皮肉にも、その言葉を肯定するような柔らかい感触がふたりを包み込む。
少しの間が過ぎた。老人は女性がいるであろう方向を向き直し、妙に明るく言った。
「しかし、そんな陰気な気待ちもどこかに飛んで行ってしまいました。ちょっと昔話をしただけで、こんなにも気持ちが軽くなった。人間て簡単なもんですね」
女性は彼の声の明るさに合わせて努めて明るく笑うが、本心の込められた語気で強く返す。
「でも 、あなたの懺悔は身勝手ですよ。絶対にその女性は、あなたの死なんか望んでいないと思います」
その言葉に老人はうな垂れて、「私も馬鹿なことをしかけたと思っています」と呟くと、それに笑って続ける。
「しかし、それ以前に私、この地が変わりすぎていて死ぬ気なんか吹っ飛んでしまいましたよ。特にこの地面の固いこと、固いこと」
老人は座りながら二、三度足踏みをする。そして、緑色の広がる思い出が、感触と香りとともに少しずつ蘇る。
「このコンクリートの下に彼女との全ての想い出が埋まっています。ここが元々、どんなところだったかご存知ですか」
「ええ」
彼女は地面に目をやって微笑む。この笑みは先ほどとは違う、何かを喜んでいるかのようにも思える本物の笑顔だ。老人も意外な共感を喜んだ。
「おお 、ご存知で」
「一面、 クローバーの原っぱでした」
老人はかつての光景を思い出し、感慨に浸る。懐かしさから出るため息とともに想い出の一部分を語る。
「彼女と会う時は決まってこの場所でした。黄緑色のスカートをひらひらさせながら駆け回る彼女の姿は、 まるでクローバーの妖精でした」
老人の声は更に丸みをびていく。言葉で撫でるような、柔らかな口調で女性に願った。
「もう少し、昔話にお付き合いいただけますか」
「ええ、是非聞きたいです」
風は止んでいた。しかし、なぜだか、四十年前の春風を浴びているような気持ちだ。
老人は心だけを少年時代に若返らせて、初恋の想い出を語り始めた。
「私が十一の頃でした。
少年の頃の私は、色んなところを探検するのが好きでしてね。親の仕事の都合で引っ越すことが多かったせいか、友達はいませんでした。しかし、探検のネタは尽きませんでしたよ。
気になる山や森を見付けたら、ちょっとやそっと危なくたって、平気で中にズンズン進んで行きました。そのせいで、服はすぐ ボロになったし、傷も絶えず……そうそう、視力こそ悪かったもののまだ私、その頃は眼鏡をかければ十分に目が見えましたのでね、探検途中で眼頼が壊れたりもしましたよ。毎日のよう山や森を巡って、 毎日のように親にどやされたものです。
ある日、私はクローバーが生い茂る高台があるとの話を聞き付けました。家から少し遠い場所でしたが、そこは探検好きからすればむしろ高ポイント。 それに、その高台からは自分の家とは逆方向、つまり今ここから見える大きい川の流れる方向の、当時で言えば未知の景色が眺められると聞いて、私は居ても立ってもいられませんでした。 クローバー集めなんて上品な趣味は全く持ち合わせていませんでしたが、私は高台を目指してその日の内に出発したのです。
家を出て、真っ直ぐ。タバコ屋がある十字路を左に曲がって、二つ目の信号を右。大型犬がいつも寝ている家の手前に、細い脇道があるんです。そこを抜けるのが近道でね。犬を起こさないようにそーっと道を抜けると、もう高台が見えてきます。覚えているんです、道順。何度も通いましたから。
小川を飛び越えて、まだ凸凹していた草原の斜面を汗水垂らしながら上ると、そこには一面クローバーが生い茂っていました。そして、彼女もそこにいたのです。
黄緑色のワンピースを着てクローバーの中にしゃがむ小柄な彼女。彼女は突然立ち上がって鼻歌交じりに踊り始めました。
その緑に舞う姿を見て、本当に私はクローバーの妖精かと思いましたよ。
私が『何やってるの』と声をかけると、彼女は栗色の三つ編みを語らして振り返りました。振り返りました、が、何も返答してくれませんでした。突然話しかけられてびっくりしただけでなく、私、十一歳にしては背が高かったものですから、それに加えて彼女小柄でしょう。大男が突然現れて怖かったんだと思います。
でも、彼女逃げなかったんです。だから私。一瞬だけ気を許してくれているのかと思いまして。後になってよくよく考えてみたら、一本しかない高台の上り口に立っていたので、私、逃げ口を塞いでたんですよね。
私が近付くと、彼女は後退りしました。やっぱり、彼女が警戒しているのがわかりました。何とかコミュニケーションを取ろうと考えましたが、何も思いつかなくて、苦肉の策でおやつに持って来ていたキャンディをポケットから取って差し出したんです。でも彼女、首を横に振るだけで、受け取ってくれませんでした。その時、彼女が右手にんでいるクローバーを見つけたのです。それで私、大事に持っているということは多分四つ葉だろうと。
あんなに必死に四つ葉のクローバーを探したのは私の人生で初めてでした。それでやっと四つ葉のクローバーを見つけて彼女にあげようと思ったら、彼女、もう逃げた後でした。あんまり必死だったから気付かなかった んでしょうね。悔しくなって、四つ葉のクローバーで手遊びしながらその日は帰りました。
次の日、高台にまた行ったのです。昨日取った四つ葉のクローバーを持って。子供でしたから、意地になってたんでしょう。
彼女、いませんでした。前の日にあんなに怖い思いをさせたんですから、当然と言えば当然です。そこでしばらく待ってたんですが、日暮れになっても彼女は現れませんでした。子供の、と言いますか、男子の意地とは面白い もので、次の日も、その次の日も、高台に行きました。やっと会うことが出来たのは、ちょうど一週間後のことです。
見付けるや否やもう、すごい勢いで駆け寄って、一週間前の黄色く干からびた四つ葉のクローバーを差し出しました。 恐らく彼女からすれば初めて会った日よりも怖かったんじゃないかと思います。それに、あの時の私はなぜその前日にも高台に行ったのに、そこで四つ葉のクローバーを探さなかったんでしょうか。今考えてみれば、よく四つ葉だとわかる状態でクローバーが残っていたものです。奇跡です。でもね、奇跡はそれだけじゃないんですよ。何と彼女、その干からびたクローバーを受け取ってくれたのです。しかも、『ありがとう』という言葉まで添えて。
余程、クローバーが好きだったのか。怖くて断れなかったのか。それとも本当にクローバーの妖精だったのか。ですが結果、そのクローバーがきっかけとなり、週に一度、土曜日だけ一緒に遊ぶようになったのです。会う場所はいつもこの高台で。
とは言っても、遊ぶ内容はいつも決まって四つ葉のクローバー探し。はじめは退屈なものでした。高台から見える川を読めてボーっとすることもしばしば。彼女と一緒でなければ絶対にやらない遊びですよ。それに、見つけても私、興味ありませんから、見つけた分は全部彼女にあげていました。でも、あげると彼女必ず『ありがとう』と言って微笑んでくれるのです。いつしか、私はそれが見たくて、四つ葉のクローバーを探すようになっていました。そして、彼女の笑顔を見る度に私の恋心は募っていきました。
彼女と会ってから、半年くらいでしょうか。また私、親の仕事の都合で引っ越すことになりました。慣れたものでしたが、今回ばかりは彼女と仲良くなったこともあり、非常に悲しかった。私はそれまで仲のいい友達がいなかったので、別れの挨拶もいつもそこそこに済ませて来ましたが、彼女に別れを告げなければいけないと知った時は本当に辛かったです。同時に、それまでに彼女に私の想いも伝えなければと思っていました。
ですが、会うたびタイミングを逃して……というより私に言い出す勇気がなかっただけなのですが、遂に引っ越し三週間前の土曜日になってしまいます。つまり、彼女に会えるチャンスはたった三回。私は奇妙過ぎる提案をしました。
『お互いがお互いに思うことを缶に入れて、それを来週、高台に埋めよう』
私は彼女への恋文を綴りました。何枚も何枚も書いたうちの一枚を厳選し、お菓子の缶の中へ入れました。
次の週、私が持っていた缶の青色と、彼女が持っていた缶の赤色をはっきりと覚えています。そして、缶をお互い高台に埋めると、私は更に奇妙なことを言い出しました。
『来週堀り起こそう』
当初は未来の相手へのタイムカプセルだと考えていたはずなのですが、引っ越す前に彼女の反応が見たかったのか、緊張も加わっておかしなことを口走ってしまったのです。それなら、埋める必要もなければ、缶に入れる必要もないのに。しかし、何の反論もせずに彼女はいつもの笑顔で『わかった』と応えてくれました。おそらく、彼女はその時すでに私の気持ちを察していたのかもしれません。いや、唐突に『缶に思うことを入れる』なんて提案した時点で気付かれていたのだと思います。
引っ越しの週、土曜日は大雨でした。それでも私は高台へ向かいました。彼女は必ず来るだろうと確信していたからです。根拠はありました。雨の中、傘を差して高台で遊んだことは何度もあり、そのうち一度はその日と同じくらいの大雨だったからです。
しかし、彼女は高台にいませんでした。いつも私より早く来ていた彼女が、です。私はそこで何時間も胸を高鳴らせながら待ちましたが、一向に彼女は現れませんでした。やがて日が落ち、私は風邪をひいて帰りました。缶は掘り起こしませんでした。彼女と一緒に掘り起こすということに意味があると思ったからです。
その後、彼女が缶を掘り起こしたかどうかはわかりません。もし、掘り起こされていなかったら、この通り、ここにはコンクリートが被さっていますから、もう缶の中身を見ることは不可能です。
私の初恋は散る前に終わってしまったという話です。それから四十年が経っていますが、私は未だに彼 女を想い続けることが出来ている。それを誇りに思っています」
老人は一息つくと、しみじみと街並みを眺める女性に向けて、少しひょうきんな声で言った。
「幾分かお話にフィクションを混ぜ込んじゃいました。そちらの方が面白いと思いまして。とはいえ、長々とどうもすみません。長年閉じ込めておいた思い出話をやっと解放することができました」
女性は彼の言葉を聞いても表情を変えず、そのまま淡々とした口調で言った。
「本当に振られたのでしょうか」
「いえ、振られたかどうかもわからないんですよ。それ以来一度も彼女と会っていないので。実はね、住んでいるところはおろか、名前さえわからずじまいで。近所で見たことがなかった当たり、彼女の家はここから見えるあの川の向こうなんじゃないかな。私の家とは逆方向です」
笑いながらそう言う老人の声には、彼本来の明るさが滲んでいた。それは女性と会った当初には感じ られなかった明るさだ。
女性はゆっくり男性の方を向きながら言った。
「その日は大雨だったんですよね。でしたら、こういう考え方はできないでしょうか。雨で川が氾濫して、 橋が流れてしまったんです」
老人は目を丸くした後に噴き出した。
「ごめんなさい、それはいくらなんでも大袈裟ですよ。そんな大事故なら、いくら私の家が川から遠いとはいえ、情報が入って来ないわけがない」
「いいえ、そちらの川ではありません」
小首を傾げる老人に女性は静かに続ける。 「高台を囲む小川の方です。小川に架かっていた橋はただの板切れだったんですよね。あなたは背が高いのでいつも飛び越えていたと言っていましたが。彼女はどうでしょう。小柄な彼女はそこを渡らなければ 高台を上ることは出来なかったのではないでしょうか。彼女はきっと、大きな川に架かっていた揺れる吊り橋を渡り切り、高台の下までは来たのだと私は思います」
老人は考えもしなかった。確かに、老人はいつも飛び越えていた橋を気にすることはなかった。女性の解釈を信じると涙が出そうになる。しかし、そうでなくても励まそうとしてくれている女性の優しさが沁みた。老人は長く口を閉じ涙を堪えた。
しばらくしてから、穏やかな微笑みを女性に向ける。
「ありがとうございます。今の推理を聞いて、初恋の結末に望みが持てました。あと、あなたは私と同時期にこの街にいたことがあるではないですか」
「なぜですか」
「今、川に架かっているのは鉄機なのでしょう? それが元々吊り橋であるとご存知なのはつまり、そういうことにはなりませんか」
老人の言葉を、女性は穏やかな表情で聞き入る。老人はずっと聞きたかったこと問うた。
「そういえば、ここが好きで塩してきたと言っていましたよね。何か特別な思い入れでもあるのですか」
さびた缶を持つ女性の手に力が入る。しかし、声は穏やかななままで。
「おそらく、おそらくですが、あなたと同じ思い入れがあります」
「え?」
老人の疑問の声に、女性は缶に目をやり柔らかく微笑んで答える。
「あなたと同じで、私も言い出せなくてタイミングを逃してしまうのです。ずっと会って缶を渡したいと思っていたのに、いざ会ってみると緊張して渡せない」
考え込む老人に、女性は缶の蓋を開けて、老人のひざに載せた。老人の左手をそっと取り、缶の中を触れさせる。
老人は研ぎ澄まされた触覚で優しくそこにあるものを握り、確かめた。
プラスチックの冷たい感触。それも薄いカードのようなものが無数に敷き詰めてある。右手も加えて、 両手の指でその中の一つを摘まみ、そこの僅かな凹凸に神経を集中させる。線の感触を伝って、指先に感じる円盤形のものを丁寧に教える。一、二、三……。最後の葉を数えると、抑えられない感情が手を力ませ、クローバーの押し草を押し曲げた。四枚。
「まさかそんな……まさか……」
老人から思わず漏れる驚きの声。同時にその嬉しさに涙する。
そして、両手いっぱいに四つ葉のクローバーの押し草を掴んで、それを顔に当てて小さく嗚咽する。
女性は言葉で老人の頬を撫でた。
「全てあなたからもらった想いです。そんなに強く握ったら潰れてしまいますよ」
老人の涙は止めどなく缶の中を湿らせる。老人の目にははっきりと、いつかの青々としたクローバーの草原が映っていた。女性は涙目で風景を眺めて、今日の出会い頭、老人から尋ねられたことと同じ言葉で訊いた。
「どうですか、ここの見晴らしは」
「四十年前の光景が……あなたと眺めた、半年間の光景が……」
そこからは涙で詰まって、声を出すことが出来ない。老人は女性の手を握り、それを言葉の続きとした。
風が吹いた。いつも春はやって来る。
終
●○●○●○●○●○
【罪状】建築基準法違反
小川に架かる橋が大雨で流れるほどの手抜き建築だったため。
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