見出し画像

【掌編小説】日の出のアクター

 海沿いのコンビニを出るとすぐに、防寒具から僅かに露出した肌を滑って潮風が入り込 んで来た。立ったままうずくまり、今買った紙コップのコーヒーを両手で包んでカイロ代 わりにする。しかし、厚い手袋越しだとなかなか熱が伝わらず、もどかしくなって、頬に紙コップを密着させた。これはこれで熱くて耐えられない。
 暖を取るのに四苦八苦する俺をしり目に、涼恵すずえはコンビニ袋を前後に遊ばせながら、夜明け前の青みがかった道路を渡る。
 歩幅が大きい涼恵の後ろ姿を見て、ようやく涼恵と久々に会えた気がした。
 年末年始は、千葉県館山市にある祖母がひとりで住む家に親戚中が集まって年を越すのが恒例だ。毎年そこで、叔父叔母とは顔を合わせるのだが、その娘、つまりいとこの涼恵 と会うのは五年振りだった。大学卒業後、上京し百貨店の販売員をしていると聞いていた。年末年始は繁忙期なので、祖母の家に帰れないのだと。
 それが嘘だと知ったのは、昨年。偶然だった。
「いつまで縮こまってんの。動けば温まるよ」
 涼恵が呼ぶ道路の向こう側へ身を縮めたまま小走りする。三つも年下の涼恵から母親の ようなことを言われ、恥ずかしくなってむきになる。
「寒くないの」
「寒いよ」
「だって、アイス買ってただろ」
「寒いところで食べるから、アイスは美味しいんじゃん。夏場にさ、無性にキムチ鍋食べ たくなる時あるでしょ? それと同じ」
「じゃあ、夏は食べないの。アイス」
「食べるよ、暑いもん」
 釈然としないまま、ホットコーヒーの蓋を取って一口啜る。湯気で眼鏡が真っ白に曇る。涼恵の後を追って二分も歩くと、もう海岸に着いた。毎年、初日の出を見に辿る道。五年前までは涼恵と辿っていた。
 日が頭を出すまで、あと十分ほどだろう。既に、海を囲むなだらかな岩場にはまばらに人が集まっていた。三脚を立てて待つニット帽の男性、犬を連れている老夫婦、火を焚こうとしておじさんに怒られている若者もいる。黒色が浅く小高い岩場に人が群がっているのは、あそこがベストスポットだからだ。
 毎年の光景。涼恵と来れば懐かしさに浸れると思っていた。だが、会話するとなぜか他 人のように感じる。くだらないやり取りはかつてのままだし、容姿だってそう大きくは変 わらない。先ほど、後ろ姿に少しだけ感じた懐かしさがどこかへ去ってしまう。
 人があまりいない岩場に涼恵はしゃがみ込むと、早速、カップアイスを取り出し嬉々と して表面に木べらを立てる。だが、石のような硬度のアイスには全く歯が立たない。時々、息を吐きかけては木べらを押し付けるが、刺さりもしない。
「手、震えてるじゃん」
 見下ろして言う俺を睨み、蓋をして、手袋を外すと両手で容器を包む。体温で溶かそうとしているらしい。
「凍傷になるよ、やめときなって」
「この程度で凍傷になったら、館山では暮らせないよ」
 口を尖らせて反論する涼恵に、お前は東京住まいだろうと返す言葉が出かかったが、空 を見て飲み込む。紫色だ。しかし、厚さこそないが雲が多い。今年は日の出が拝めるか、 不安になった。
「あ」と涼恵が思い出したように声をあげ、真っ赤になった手の平を俺に下手に見せる。
「お年玉」
 申し訳なさを繕っているのが声でわかる。眉を上げて、上目遣いでにやつく。
 幼い会話や行動は前と何も変わっていないが、なぜか当時の安心感はなかった。今の涼
恵に金がないのがわかっているからだろうか。
「お年玉って歳じゃないだろ」と、財布を覗く。五千円札が一枚に、千円札が四枚。
「お気持ちでいいので」と媚びる涼恵に、逡巡の末、千円札を一枚差し出す。
「これだけ!?」
 声色が変わる。
「気持ちでいいって言うから」
「今後の関係に響くよ」
「じゃあ、やらない」
 財布に戻そうとする手に掴みかかり、嘘ですと連呼しながら涼恵はぺこぺこ頭を下げる。冗談めいた口調だが、本心は必死なのだろう。千円に飛びつく涼恵の生活を考える。これからの生活は大丈夫なのか、その日その日の食い扶持から、果ては将来の結婚までも心配になってくる。
 千円札を賞状のように両手で受け取り、深々と礼をする涼恵のひょうきんさが悲しく見えた。行動は五年前と何も変わっていないのに。
「そんなに稼げないの、劇団は」
 心配が言葉を押し出してしまった。涼恵の丸い目が千円札ではなく、俺に向けられる。
 数秒の止まった時間に、訊いてしまった後悔が押し寄せる。涼恵が下北沢の小さな劇団で活動しているのを家族に黙っている理由もわかる。不安定な人気商売に賛同する親など、 ましてや大学を出ているひとり娘ならばそうそういない。第一、今こうして、金に困って いるのだ。久々に顔を出したのは、生活費の工面のためでは、と涼恵を疑っている自分が 嫌になった。
 後悔に頭が熱くなり、涼恵から目をそらさせた。
「そっか、家、東京だもんね」
 涼恵は呟いて、千円札を指に挟んだまま、再びアイスのカップを両手で強く握って海を眺める。前髪が潮風に流され、彼女の顔が隠れて表情が見えない。
 涼恵は乱れた髪を直さずに続けた。千円札がはためく。
「観に来てくれたの?」
「いや、写真見かけただけだよ。バイトの先輩で芝居やってる人がいてさ、誘われて観に行った時に他の劇団のフライヤーをもらって。そこに写真が混ざってたんだ。名前も顔も違うから初めは気づかなかったよ」
「顔は一緒でしょ」
「え、違うよ、全然違う」
 焦りを隠そうとして口数が多くなる。口調を意識的に明るくしたが、多分、動揺は隠せていない。
鈴本すずもとめぐみ』。涼恵の活動名を知っているのは親類で俺だけだと思う。だからこそ、訊いてはいけなかったのだ。フリーターの俺に貸せる金はないし、コネもない。自分で口に出しておきながら、何も力になれない。
 沈黙のたびに、後悔が脳を揺らして混乱させる。言葉が浮かばない。
「そうなんだよねぇ」というため息交じりの言葉が、涼恵の前で白くなって消える。
「コロナで大分食らっちゃってさ。バイトも劇場のスタッフだったから、お休みになって。 新しいバイトを探してるんだけど、融通が利くところがないんだよ。ほら、公演がなくなっても次作の種古は続くわけだし。また出来るようになるかも、だし。それに第一、モチベー ションが、ねぇ」
 涼恵がこちらを振り返る。引きつった笑顔で俺に同意を求めているのが、辛かった。
 叔父から、俺が会社員を辞めてから二年間、フリーターをして食いつないでいるのを聞いていたのだろう。涼恵の中では、俺に何か別の目標があって、意図してフリーターをし ているように見えているのだ。モチベーションが持てないバイトを生活費のために嫌々こ なし、いつかは、と野心に燃えながら空いた時間で夢に向かって命を賭している。そう見 えているのだ。
 違うんだ、俺には何もない。
 会社が傾きかけて間もなく、希望退職者募集の通知があった。その時に入社後初めて、 がむしゃらに走ってきた六年間を振り返った。僅かな貯金と昭和堅気の営業技術が少しだけ、他には何も残ってなかった。その日その日を生きるための情熱は、自分のためではなく、会社のためだったとようやく知って虚しくなったのを覚えている。
 辞めて時間が出来れば、何か自分が進むべき道が見えると思っていた。だが結局、退職 して二年、今も同じ生活を送っている。金を稼ぐためにバイトをし、適当な飯を食い、疲れて寝る、だけの毎日。以前よりも有り余っている自由が、目指すべきものも、没頭する
ものも見付けられていない俺の前で腐っていくのを感じていた。モチベーションを持てな いのは、もはや仕事だけでなく、生活すべてにだ。
 進みたい道とは別の道で金を稼ぐ気が起きない涼恵と違って、俺の前には道がない。 「目指す夢があるんなら、腹括って、叔父さんに相談しなよ。ちゃんと話せば、生活費くらい貸してくれるだろ。そのために帰ってきたんじゃないのかよ」
 涼恵の視線ががらんどうな自分に刺さり、反射的に思いもしない言葉がこぼれる。こんな攻撃的に言葉を投げ付ける気はなかったのに。これではただの妬みじゃないか。
 ゆっくり涼恵の顔がまた海に向く。
 岩に突進する波の音がやけに大きく聞こえる。
 クゥ、クゥ、と遠くで鳴くかもめの声が清らかで、余計自分の心で渦巻くものの醜さが際立ち、いなくなってしまいたくなる。
「こういうのはね」と言って、涼恵が小さく鼻を啜る。
「夢じゃなくて、意地って言うんだよ」
 先ほどよりも黒が淡くなった海を眺めたまま続ける。
「私、芝居がしたくて上京したんじゃないんだ。
 大学の演劇部で出会った彼氏がいてね、東京で演劇やりたいって言ってたのはその人。 家に挨拶まで来てくれたけど、夢追い人なんてウチのお父さんが受け入れるワケないじゃん。彼も尖ってたから、お父さん相手に『劇団を立ち上げて本多劇場で公演打ちます!』だとか『自分の書いた芝居で海外凱旋します!』だとか熱く語っちゃって。お父さん、顔真っ赤にしてさ、彼はわかってるくせしてお構いなしの大熱弁。
 でも、あの時はどうかしてたんだろうな……お父さんって見るからに亭主関白でしょ。 だから、私の中でもひたすらに怖い父親だった。お父さんの機嫌をうかがいながら勉強し て、大学行って。その父親に怯えもせず、大口叩いてる彼を見て、ああ私お父さんに縛られたんだなって、彼と一緒にいれば自由になれるんだなって、変に感銘受けちゃってさ。それでそのまま、親に東京で仕事が決まったって嘘ついて、彼と一緒に上京。今でも五年前に越してきた六畳一間の安アパートでその日暮らししてるの。
 ね。どうかしてるでしょ」
 涼恵は自分を鼻で笑って、俯く。アイスのカップを握る爪が白くなっているのが見えて力んでいるのがわかる。
 涼恵の話が本当なら、彼も今路頭に迷っているのか。共同生活なら、彼の仕事次第で涼 恵の生活も決まるはずだ。彼の演劇以外の収入源が、涼恵と同じようなコロナの影響を受 けないところであることを祈った。
「彼はバイトか何かやってないの」
「彼? なんで」
 振り向いて、顔だけを向けた。髪を耳にかけながら、言う。
「上京して半年でどっか行っちゃった。着拒もラインブロックもかかってる。探さないで、ってことみたい」
 ひとつ咳払いをして、 涼恵は立ち上がって手を空に伸ばしながら、間延びした声で続ける。空元気だとすぐにわかった。
「郷に帰ったのか、他の女と駆け落ちしたんだか知らないけど、迷惑な話だよ。その日か ら家賃は全部私持ちだし。面倒見てくれてた劇団もどちらかって言うと俳優志望の彼 買ってたから、ただ付いて来た裏方の私だけじゃ稽古場行くのが気まずくてさ。わんわん泣いて三日くらい休んだなあ。
 その時点で家に連絡すればよかったんだけど、芝居のことはいいとして、彼のことはどうやって説明しようって考えてるうちに劇団の人たちが家に押しかけて来てさ。励ましてくれるのかと思ってたら、あいつはどこ行ったって、どこに逃がしたんだってめちゃくちゃ問い詰められたよ。それが悔しくてさ……大してお金にもならないのに東京に残っちゃったんだ」
「悔しくてって」
「だってさ、誰にも必要とされてなかったんだよ。彼にも、劇団にも。しかも、友達が一 人もいない東京で。だったらゼロじゃん、何にも残ってないじゃん私。って思ったんだけ ど、気が付いたら他の小さい劇団片っ端から受けてた。
 後で考えたら、残ってたんだよ、悔しさだけ。彼も、あの劇団も、泡吹かせてやろうっ ていう意地だけでやってきたんだよ、ここまで」
 涼恵が唇を軽く噛んで黙る。 息を吸い込むと冷たい空気が鼻に入って、鼻腔の奥が痛くなった。吸い込んだ息を言葉で吐き出せない。 涼恵が演劇を続ける理由は、自分のためであり、彼のため、自分を捨てた劇団のため。誰かのため、なんて感情は俺にはなかった。
 もし、誰かのためと思えたなら、俺にも進む道が見えたのだろうか。
「あー!」と涼恵が空に向かって叫んだ。不意のことに、体が一瞬震える。歯を見せて笑いながら、俺に向く。
「すっきりした。よく喋ったなあ、私。喋りっぱなし。五年熟成の愚痴は気持ちいいわ」
 ああ、その顔。その顔だ。
 他人のように感じたのは、その幼げな、素直な笑顔がなかったからだった。
 ああそうか、一緒に初日の出を見に来たのは、なんで帰って来たかを問いただすためな んかじゃなくて、涼恵の笑顔が見たかったからか。
 自然と、つられて口角が上がる。この顔を見るために生きていたような、そんな気さえした。 紙コップの中身がアイスコーヒーになっていることに気付くのと同時に、海が明るくなっているのがわかった。少し前に日が出ていたらしい。
 ただ、雲が厚く、日は隠れていた。水平線と雲の間がぼんやりと橙色に染まっている。
 俺が海の方を眺めていることに反応して、涼恵も同じ方向に目をやって不満げな声を上げる。
「え、あれ初日の出って言えるの」
「一応日は上がってるわけだし」
「幸先悪いなあ」と言って、カップアイスを持った手をぶらつかせる。千円札がまだ裸のまま指に挟まっていた。
 誰かのためが涼恵のためになるだろうか。
 財布から五千円札を取り出して、涼恵に差し出す。フリーターにはこんなもんしか出せ ないが、涼恵のためになるだろうか。
 涼恵は戸惑った表情で、札と俺の顔を何度も往復する。
「さっきもらったよ」
「さっきのは去年の。これは今年の」
「何、反省したの」
「じゃあ、やらない」
 財布に戻そうとする俺の手に、嘘ですとまた連呼して掴みかかってくる。涼恵は、こう いうくだらないやり取りを東京で何回しただろうか。溜まりに溜まった想いを聞いてくれようとした人が何人いただろうか。
 そう思うと、再び五千円を差し出す手に躊躇がなくなった。涼恵は両手で有り難そうに 受け取りながら「いただいておきながら、なんなんですけどね」と語り出す。
「実は、お金の都合付けに帰ってきたわけじゃないんだ。辞めようと思って、劇団」
「え、何で」。考える前に口から出た。
「まだ親には言ってないんだけどね。お金はどうにかするよ、頑張って。あ、でも、これ はいただきますよ」
「どうして、続けてよ」
 涼恵が札を掲げてひょうきんに返すのを遮り、また口から感情がそのまま出た。続けてほしかった。自分のためにも、涼恵のためにも。
「意地で続けてたけどさ、これだけ公演が出来ないと、見返すにも見返せないんじゃないかって。先を考えると色々不安になるんだよ。いつ終息するかなんて誰にも読めないし」
 涼恵は目を長くつむって、ゆっくり開ける。
 涼恵を不安にさせているのは、コロナだけではない。だから、やっと、迷いなく言えることがあった。
「俺、フリーターなんだ」
 驚いた顔を向け、乾いた笑いをひとつ吐く。
「知ってるよ。何を今さら」
「そういうことじゃなくてさ、だからさ、時間は有り余ってるんだ」
 そう、腐るほど時間はあるのだ。
 自分の道が見えた気がした。
「愚痴聞かせてよ。五年も溜めずにさ。今年だってやってりゃ溜まるだろ」

 おお、と後ろから男性の感嘆の声が上がる。
 僅かな雲の切れ間から日が顔を出したのだ。
 放たれた一筋の閃光が、海面のステージで踊っている。
 かもめの影が二つ、光で遊んで、すぐにどこかへ去っていく。

 涼恵は吹き出すと「そんなことしてないで、ちゃんと仕事しなきゃだめだよ」と素直な顔で笑った。
「まあ、お金より嬉しいよ」
 静かに海に言葉を落として、涼恵は五千円札を両手でピンと張り、日に照らし合わせる。
「あと少し、な、気がする」
 そう言う横顔に暖かい橙が当たっているのを見て、気が付いた。
 そうだった。俺はフライヤーの写真を見て、涼恵の顔が違ったと思ったのではなかったのだ。舞台の上、鋭い暖色のライトに照らされながら、舞うように立ち回って台詞に息を吹き込む『鈴本めぐみ』を、涼恵を観て、思ったのだった。
 劇場に足を運んだなんてことは言えなかった。さっきも、もちろん当時観に行った際も。
 何もない自分を見せるのが恥ずかしかったからだ。だが、次に観に行ったら、胸を張っ て言える。かつてない充足感が体にみなぎっていた。
 俺が涼恵の横顔を薄目で見つめているのに気付き、恥ずかしそうに、少しだけ気味悪げ にアイスの蓋を開ける。
「少しって、アイスがだよ」
 奪われた手のひらの体温が、カップの縁沿いのアイスを僅かに溶かしていた。
 涼恵は木べらですくって口に運ぶと、「しみる」とこぼして自分の右頬を押さえた。


●○●○●○●○

【罪状】脱税

涼恵がここ数年確定申告を忘れているため。



追記

【2021年、コロナ禍の真っ只中に書いた作品です。
それから3年。少しづつ、演者も客も自由を取り戻し始めました。
今年、鈴本めぐみはキャパシティ100席にも満たない小さな小さな、下北沢の小劇場で、主演として板に立ちます。
税務署に追われながら。

今年も何卒宜しくお願いいたします。

杜崎まさかず】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?