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リプレゼンテーション

 「リプレゼンテーション」という言葉に出会いました。LGBTQ、つまり性的少数者の使う用語でした。もともとはLGBTQの使う用語というより、演劇の世界で使われることがポピュラーな言葉だったそうです。演劇の世界では日本語の「上演」に当たります。造形芸術の世界では「再現」です。さらに古くからある使い方は何かと思い、この言葉の意味を調べていくと、「人間のありのままの表彰」という何やら哲学的な概念に当たりました。このような「人間のありのままの表彰」という視点から、LGBTQの間でも使われたのだと思います。

 これは、まあ「リプレゼンテーション」という言葉の起こりに、ミッシュル・フーコーとエドワード・サイードの名前があがっていましたから、哲学的になるのもうなずける気がします。

 フーコーの文章はかなり難しい。多くの著作物で有名ですが、その他に、論調の通奏低音として同性愛が存在することは有名です。一方のサイードは『オリエンタリズム』という超有名な本の著者です。パレスチナ系アメリカ人のサイードは、『オリエンタリズム』でヨーロッパ人が仕切ってきた世界の経済や政治や社会のあり方を批判します。特に差別構造を論じています。植民地支配者と被植民者を巡る言説を人類学や歴史学、その他さまざまな学問を総合して研究したのです。ポストコロニアル理論のことだと言った方が分かりやすいのでしょうか。

 『オリエンタリズム』は、だいぶ昔に読んでいますが、フーコーの著作は取っ付きが悪く(もともとフーコーは文献学者です)、読もうとしても根気が続かず、実は読めたというほど読んではいません。

 ここでなぜ、わたしの目に「リプレゼンテーション」という言葉が止まったのかを説明しておきます。「リプレゼンテーション」はLGBTQや人種・民族のありのままの姿を描くためだけに存在したのではありません。また演劇の「上演」や造形芸術の「再現」という意味もあるぞということでもありません。読んでいて、「ありのままの姿」を描き、それが社会に受け入れられるというのは、さまざまな「障害者」にも当てはまることに気が付いたからです。

 もっとも「障害者」といっても、どこか別世界の住人ではありません。どこにでもいる普通の人間です――わたし自身が「障害者」です。遺伝子レベルで言えば「障害者」でない人などいません。皆、どこかしらには、必ず変異があるのです。しかし「障害者」と名指されるやいなや、「健常者」とは別の存在と認識されてしまいます。言葉のマジックのようなものです。

 わたしは、自分は「障害者」であると名指しされて、気分の良い時と悪い時があります。良い時とは、「障害者」であるが故の特別なものの見方が、社会的に価値あるものと評価されたときです。悪い時とは、「障害者」と「健常者」が、あたかも社会の中で主従関係があるかのように扱われたときです。「障害者」であるが故の特別なものの見方には、受け取った側の素直な驚きがあるように思います。ところが主従関係があると誤解している場合には、社会のメイン・ストリームを歩けるのは「健常者」だけだという思い込みを感じてしまうのです。

 「リプレゼンテーション」が「障害者」の「ありのままの姿」を描くのならば、その人の良いところも悪いところも、いっしょに表現するはずです。その中には「障害者」であるが故のものの見方が含まれます――視覚に頼らない人にとって陶器の裏と表が区別できるような視覚に頼った見方ではなく、触れてみて、一繋(ひとつな)がりに辿れる「表面」と認識される滑らかな曲面のようなことです――が、それと同時に、実体として遠くにある星の瞬きは「存在しない」のです。

 わたしは聴覚失認者(聴覚情報処理障害者)の「リプレゼンテーション」を試みようとしているのですが、そしてそれが、どんなものだと解釈しているのかを書いてみたい誘惑に、今、駆られているのですが――理系ベースの研究では「検証すべき仮説の提示」に当たります――止めておきます。もうすぐ最初の聴覚失認者のお話が聞けるのですから、それからにします。

 皆さん、どうぞ、お楽しみに。


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