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これからの失語症友の会のことを考えています

 これからの失語症友の会のことを考えています。

 2000年に国の制度として介護保険が始まりました。介護保険は基本的に高齢者が受けるものです。認知症は老化したから認知症になったという場合だけです。骨粗鬆症(こつ・そしょう・しょう)も保険が使えますが、「骨折しやすい」という条件が付くようです。その他に筋萎縮性側索硬化症(きん・いしゅくせい・そくさく・こうか・しょう:ALS)や関節リウマチなど、すべてで16種類の「特定疾病」が決められていて、65歳以上(条件によっては40歳以上)の人なら介護保険が受けられます。その中に脳血管障害でマヒの残った人や失語症のある人も含まれているのです。

 マヒの残った人は理学療法士や作業療法士に付いていろいろな訓練を受けます。理学療法士は体操の先生のように身体の動きや脚の運びを診てくれます。作業療法士は指先の細かい作業といっしょに、片腕で掃除機をかける練習とか、マヒのない側の手や、場合によってですがマヒした側の手で字を書く練習のようすを診てくれます。どちらも日常生活に欠かせない技術です。しっかり診てもらうことが必要です。

 言葉のリハビリテーションは言語聴覚士が診てくれます。基本的には身体や手指のリハビリテーションと同じです。言語聴覚士にも、理学療法士や作業療法士と同じように介護保険は使えるのです。

 でも、ちょっと待って下さい。脳梗塞になって病院に担ぎ込まれたり、リハビリテーションのための病院に転院した時は、しっかりした言語のリハビリテーションが受けられます。しかし、病院の言語聴覚士も脳梗塞の当事者も、退院した後に関わり合いを保てている例はあまり聞きません。病院では、入院して医療処置やリハビリテーションが受けられる期間は180日という制限があるのです(この場合は介護保険ではなく、一般の疾病と同じように医療保険を使います)。それを越えて入院し続けることは、よほどの事情がなければできません。

 ところが、それを越えてもリハビリテーションは必要です。マヒした身体や手指は、動かさなければ徐じょに動かなくなってしまいます。言語のリハビリテーションも同じです。せっかく話し始めても、能力が徐じょに衰えていくのです。

 これは何とかしなければいけません。脳梗塞当事者にとって、せっかく芽生えた能力が衰えていくなんて考えるだけでも恐ろしい。それに言語能力は、身体や手指の回復よりも、ずっと長く回復し続けるものだと言います。このことは、しばしば聞きますし、わたし個人の経験でもそうでした。わたしは脳塞栓(そくせん)症を起こしてから20年以上が経っていますが、未だに音読の習慣を続けています――音読をさぼると、わたしの講義や講演でも失語が出て、ボロボロになってしまいます。そのことは身に染みてよく分かっています。

 失語症者が自分の症状を何とかしたいというのはごく自然な感情です。失語症者には介護保険が使える年齢に達している人が多くいます。でも、現実に言語聴覚士に診てもらっている人は少ないのです。なぜでしょうか。

 それは介護保険が受けられる介護福祉施設や介護老人保健施設でも、通所介護や訪問介護などでも、基本的に言語聴覚士が少ないのです。そのために、現実に介護保険を使って言語のリハビリテーションを受けられる人は少ないのです。地域を見回すと福祉施設や老人施設は山ほど目に付きますが、少なくとも言葉の問題やコミュニケーションに関しては、たいへん貧弱なのが実情です。

 わたしなど、人と人の間には、まずコミュニケーションが必要だと思っています。コミュニケーションがなければコミュニティが成り立ちません。脳梗塞当事者は社会に出ることができなくなります。社会に出られないということは、仕事はおろか、趣味の活動も出来ないということです。そうした場合、ひとりで暮らす高齢の障害者では、家に引きこもっている例が多いのだと聞いています。

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 この貧弱さを補っているのが失語症者の市民団体です。一般には失語症友の会と呼ばれています。

 失語症友の会は、英語では Aphasia Peer Circle と言います。Aphasia は「失語症」です。Peer Circle というのは、「相互に面倒を見合うサークル」といった意味になります。つまり失語症友の会は、当事者と当事者が互いに支え合う市民団体ということです。当事者が支え合うというのが、本来のあり方なのです。

 失語症友の会の中でも、Peer Circle という言葉が生きる活動には、どんな利点があるのでしょうか。それは、

◎ 失語症の仲間ができることによって、「失語症者」の振る舞いを客観的に見つめることができる。
◎ 病院や福祉施設・老人施設のように、医師や看護師、言語聴覚士に頼るのではなく、当事者が活動に責任を持てる。
◎ 当事者としての生活のしかたや自主的なリハビリテーションのしかたを伝え合う。

などであろうと思います。この他にも Peer Circle のメリットはあるのでしょうが、今、思い付いたのはこのようなことでした。

 「『失語症者』の振る舞いを客観的に見つめることができる」というのは、何を指して言っているのか説明が必要でしょう。これは「失語症者」に限りません。おおよそ人というものは、自分の振る舞いを客観的に見つめることが苦手です。わたしも客観的に見直してみて、はじめて気付くことがよくあります。例えば「大きなガラスやショー・ウインドウに写った自分の歩く姿を発見したとき」「びっこをひき、片腕が胸まで持ち上がった歩き方は、まるでバランスが取れていません。『さっそうと歩く』とまではいかなくても、『すたすたと歩く』自分の姿をイメージしているわたしは、本当の自分の歩く姿を見るたびに裏切られます。『醜い』、という言葉が言いすぎなら、少なくとも『不細工』ではあるでしょう」(「障害者サイボーグ」と当事者研究)といったことです。

 ところが自分以外の失語症者がいてくれると、そのことだけで「大きなガラスやショー・ウインドウに写った自分の歩く姿を発見したとき」のように、自分の振る舞いも客観的に眺めることができるのです。客観的に眺めることによって自分のしゃべり方を知り、改善するべき点が具体的に分かるようになります。

 「当事者としての生活のしかたや自主的なリハビリテーションの工夫を伝え合う」というのも説明しておきましょう。

 これは医師や看護師、言語聴覚士のように「正解(と今のところ、されている回答)」を知っていて、「正解」、つまり教科書的な知識によって失語症者を導くこととは根本的に違います。それは当事者の実際の生活に根差した知恵なのです。

 昔は「お婆ちゃんの知恵袋」という言葉がありました(今でも大事にしている人はいるはずです)。「角砂糖が水筒内のにおいを吸い取る」とか「ほうれん草のゆで汁でシミを落とす」というあれです。当事者の実際の生活を通した知恵とは「お婆ちゃんの知恵袋」に近いものだと思います。わたしなど障害者歴20年以上ですから、医師や看護師、言語聴覚士には思いも付かない知恵がいくらでもあるのです。これを活かさない手はありません。医師や看護師、言語聴覚士などの医療関係者は、確かに豊かな知識は持っています。しかし、生活に根差した知識ではないのです。そして医療関係者の知識は、日び、更新されていきます。古い100年前の知識で患者を診るなどもっての外です。その点「お婆ちゃんの知恵袋」から生まれた知識は、古びることは、あまりありません(少しはあります)。

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 このように市民活動として生まれた失語症友の会ですが、実は言語聴覚士のボランティア活動に支えられているところが大きいのです。言語聴覚士の中には失語症友の会を支える(横張, 2001)ことに義務感と達成感を覚える方がいるのかもしれません。言語聴覚士が支えてくれたから失語症友の会が維持できたという失語症者はよくいます。

 その一方で、支える存在であるはずの言語聴覚士が失語症友の会を、「支配」というと言い過ぎだと怒られるかもしれませんが、少なくとも「先導」しようとする場面には何度も出くわしました。医療関係者として「正解」を知っている言語聴覚士が市民団体の失語症友の会を「先導」したら、市民の「相互に面倒を見合うサークル」という意味はなくなります。「当事者が活動に責任を」持つこともできません。しかもそこで開陳される「正解」が、今でも本当に「正解」だという保証はどこにもないのです。言わば「リーダー」と「フォロワー」という固定された関係になるのです――わたしは本質的に研究者ですから、これが「正解」だと言われると、「本当?」と、まずは疑ってかかる習慣があります。

 「リーダー」と「フォロワー」の関係を端的に表すのが「先生」という呼び方です。研究の必要から、わたしは幾つもの失語症友の会にお邪魔するのですが、その内の幾つかは言語聴覚士のことを「先生」と呼んでいます。言語聴覚士は格が違うのだと、失語症当事者が宣言しているようなものです。わたしにとって、この習慣はいただけません。どうにも馴染めません。また失語症友の会の中で言語聴覚士が当事者との間に格差を感じたら、そこは率先して否定する度量を示してほしいのです。

 「先生」という呼び方は、医療施設である病院の習慣を市民団体の失語症友の会に、そのまま持ち込んだものだと思います。病院では、まず医師が「先生」と呼ばれていますが、看護師や言語聴覚士が「先生」と呼ばれることは、まあ、あまりないと思います。

 全国レベルでは失語症友の会の数は減少し続けています(原山・種村, 2020)。原山・種村(2020)の「失語症友の会の加盟団体数の推移とその関連要因の検討」によれば:

失語症友の会の運動に参画する人が減少し、会員の「高齢化」が進むにつれ、「後継者の問題」として現れ、介護保険制度に取って代わるかたちで減少を始めたと考えられた。さらに「介護保険の現場での ST の不足」に加え,医療の現場では「365 日リハビリテーションなどで休めない」ことで、「ST がボランティアとして関わる」ことが困難となり、ST による失語症友の会のサポート体制は変化し、現在でも減少を続けていると考えられた。

原山・種村(2020)「失語症友の会の加盟団体数の推移とその関連要因の検討」
(高次脳機能研究、p. 23)

そうです。ちなみにSTというのは言語聴覚士(speech-language-hearing therapist)の略語のことです。

 市民団体である失語症友の会の参加者は、そもそも脳血管疾病の患者自体に高齢者が多いのですから、今さら「『高齢化』が進むにつれ」というのは取って付けたような原因だという印象があります。また「後継者の問題」は参加者の高齢化もありますが、そのことよりも、失語症者に限らず見られる「個人主義化」が原因のような気がします。いずれにせよ、介護保険制度が市民活動の失語症友の会の団体数を減少させたことは間違いないでしょう。

 わたしは不思議な気がしています。先に見たように、失語症者が介護保険制度を利用できるのは間違いないのですが、実際に言葉のリハビリテーションを受けている(受けられている)人は多くはいません。また言葉のリハビリテーションが可能な施設も多くありません。なのに失語症友の会の数が減少し続けている。これは、どういうことなのでしょう。

 介護保険では言葉のリハビリテーションを受けたくても受けられない。市民団体である失語症友の会も、本来の友の会組織とは違い、善意の参加者であるはずのボランティアの言語聴覚士が「先生」などと呼ばれて大きな顔をしている。そもそも若い言語聴覚士の多くは、休みの日にまでボランティアとして参加しなければいけない失語症友の会を嫌っているのではあるまいか。

 何となくそんな気がしてしまいます。

 いかがでしょうか。


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