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「障害者サイボーグ」と当事者研究

 「障害者サイボーグ」という言葉に出くわしました。『サイボーグになる』という本を読んでいてです。「障害者」と「サイボーグ」? はじめはピンときませんでしたが、著者のキム・ウォニョンさんとキム・チョヨプさんの主張を読んでみて、その輪郭が見えてきました。なるほどと納得しました。

 男性のウォニョンさんは車いすユーザーです。遺伝病で骨が折れやすいという特徴があるために、車いすが手放せなくなったのです。女性のチョヨプさんは補聴器ユーザーです。難聴のために補聴器を付けて生活しています。

 おふたりの障害者としての経験には、わたしと似たところがあります。それは鏡に写る自分自身の姿に驚くことです。わたしの場合、それは大きなガラスやショー・ウインドウに写った自分の歩く姿を発見したときです。びっこをひき、片腕が胸まで持ち上がった歩き方は、まるでバランスが取れていません。「さっそうと歩く」とまではいかなくても、「すたすたと歩く」自分の姿をイメージしているわたしは、本当の自分の歩く姿を見るたびに裏切られます。「醜い」、という言葉が言いすぎなら、少なくとも「不細工」ではあるでしょう。事実、キム・ウォニョンさんは、はじめて車いすという補装具で「座った高さ」という視界と動ける自由を手に入れて喜びに浸っていた10代の頃、そのような「鏡に写る自分自身」という「他者」が、自分に向かって「おまえは……人間なのか?」と問い掛けたそうです。

 10代の思春期を乗り越えた今のウォニョンさんは、補装具を付けた存在に親しみを感じるようです。その良い例を説明しましょう。『サイボーグになる』に載っていた話です。警備員のAさんは交通事故で右脚を切断して、ずっと義足を付けて働いてきました。ある時、勤務中の除雪作業で転倒して義足を破損してしまいました。勤務中の破損ですので、勤労福祉公団に産業災害補償保険法に基づいた保険金を請求しました。義足の破損は負傷したのと同じだという理屈です。韓国では勤労者が業務に関連して負傷したり病気になったりしたら保険金が出る仕組みがあります。しかし、この時の勤労福祉公団の判断は、義足は取り外しが出来るので身体の一部とは言えないという理由で保険金の支払いを拒否しました。納得できなかったAさんは裁判に訴えましたが、一審、二審ともに敗訴しました。

 Aさんは最高裁に上告して最終的な判断を仰ぐことにしました。この時は障害者の味方になってくれる法律家や国家人権委員会がAさんの立場を支持する意見書を出してくれました。義足は障害者の身体と分離不可能な「身体の一部である」という理屈です。これはさまざまな障害者にも納得のいく理屈でしょう。例えば車いすや盲人が手にしている白杖、補聴器や音声文字変換機器は、障害者が社会生活を送る上で分離不可能な「身体の一部」なのです。その結果、法律家や国家人権委員会の意見書とAさんたちの理屈が認められて、最高裁はこれまでの判決を覆し、Aさんの主張を支持しました。

義足は単に身体を補助する器具ではなく、身体の一部である脚を機能的、物理的、実質的に代替えする装置として、業務上の事由で勤労者の装着していた義足が破損した場合は、産業災害補償保険法上、療養給与の対象である勤労者の負傷に含まれると見るべきである。

キム・チョヨプ, キム・ウォニョン, 牧野美加(翻訳), 2022, 『サイボーグになるーテクノロジーと障害,わたしたちの不完全さについてー』(岩波書店)、「宇宙での車椅子のステータス」p. 36

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 これが「障害者サイボーグ」という、あまり聞きなれない言葉の意味です。ただ現実の障害者の生活には、多くのスティグマ、つまり事実ではない「社会的烙印」を押された苦い経験があります――当然、わたしにもあります。実は医療人類学のインタビューをしていて、こんなことまで聞いて良いのだろうかと躊躇(ためら)うことがよくあるのです。もちろん聞かれて嫌なことは「答えない」と拒否することも自由だし、そのことはインタビューをする前に伝えているのですが、今まで何人かの方にインタビューを受けてもらって、答えを拒否された経験というものが、実はないのです。わたしは、今まで10年以上にわたって「聴覚失認者への情報保障」を研究をしてきました。聴覚失認者とお付き合いして長いのです。ですから、すでに充分な信頼感があるのかもしれません(論文の中で、三谷は「これは個人情報ですから秘密にしておきます」といった約束を、けっして破らない)。ここはそうだと信じておきます。

 それだけに、何を書き込むか、何を割愛するかは、わたしの責任が大きくなります。論文原稿は当事者や支援者が目を通せるように下書きの段階で見てもらいますが、充分な理性はあっても、文字を読むことが苦手な当事者もいます。その人にいかに伝えるかは、これまで「聴覚失認者への情報保障」を研究してきた身としては大きな課題です。

 それとともに、わたしの研究態度は「当事者研究」でもあると、あらためて認識しました。

 「当事者研究」とは、さまざまな困難を抱えた当事者が自分のことを一歩突き放し、「研究」として冷静に客観視して「困難」を語る態度のことです。このような「研究」は、北海道の浦河町にある浦河べてるの家で始まりました。もともとべてるの家は、精神に何かの病気があった(ある)人たちが暮らし、地域とともに生活する共同体です。べてるの家は「同じ病気や問題を抱える仲間と語り合い、(精神科の医師や看護師、ソーシャル・ワーカーといった)専門家の支援を受けながら『自分自身でともに』、『自分の助け方』を見いだすというスタイルの確立」(藤田結子・北村 文, 2013『現代エスノグラフィー』新曜社、p. 75)した共同体として有名です。「当事者研究」の立役者となったのがべてるの家のソーシャル・ワーカー向谷地生良(むかいやち・いくよし)さんです。

 もともと「当事者研究」は、研究というよりも「生きる技術」として展開してきました。「統合失調症を抱え、親を困らせる『爆発』を繰り返すメンバー(河崎寛)に対して、向谷地が『”爆発”の研究をしないか』と誘いかけたことだった(浦河べてるの家, 2005,「べてるの家の『当事者研究』,医学書院からの参照)」(石原孝二, 2018,『精神障害を哲学する_分類から対話へ』, 東京大学出版会, p. 208)そうです。

 その「生きる技術」として発展してきた「当事者研究」を、文字通り「研究」として確立しようと努力しているのが熊谷伸一郎さんと綾屋紗月さんです。熊谷さんは小児科医で脳性マヒの車いすユーザーです。綾屋さんはアスペルガー症候群当事者(2013年刊行のDSM-5[日本語版は2014年刊行]では、ここでの自称「アスペルガー症候群」の他、「自閉症」や「広汎性発達障害」といったさまざまな名前で呼ばれていた広範な症状を統一して「自閉スペクトラム症」と呼ぶようになりました。ここでは自称に従いました。)です。

 熊谷さんは医師ですが、「当事者研究」で取り扱うのは医療者側の権威を取り払った当事者側の分析です。

障害当事者の語りは従来から、障害を持つ人の体験の記述として重要視されてきた。それは、障害を持つ人の行動の観察からはうかがい知ることのできない当事者の内面的世界をあらわにするものとして捉えられてきたのである。しかし、当事者の語りを解釈し、理論化するのはもっぱら専門家の役割であった。これに対して(綾屋・熊谷(2008)の)『発達障害当事者研究』は、当事者の視点から、障害の理論的把握を試みようとしたものなのである。

『精神障害を哲学する』、p. 232

(アスペルガー症として、綾屋さんから)空腹感がわからない、と言われたとき、健常者は途方に暮れるしかない。しかし、身体感覚の絞り込みが難しいと言われれば、理解の手掛かりが得られるような気がする。(中略)ただ健常者の場合、空腹感が立ち現れたときには、それがあまりにはっきりしたものであるために、立ち現れる直前までその感覚が他の身体感覚に紛れていたことを意識することが稀なのである。

『精神障害を哲学する』、pp. 234–235

そして石原孝二さんは『精神障害を哲学する』の中では、やはり

当事者研究とは、障害や問題を抱える当事者自身が、自らの問題に向き合い、仲間と共に『研究』することを指すものである。当事者研究は(『治療』とは異なった文脈に置かれた: 三谷)自らの病気や症状、問題について語り合う場を作り出すことによって、自分の問題に言葉を与え、自己を再定義し、人とのつながりを回復するという機能をもつものである。

『精神障害を哲学する』、p. 242

と述べています。

 わたしは医療人類学のインタビューの中で、医療者の権威に頼った物言いはできないことを身に染みて理解しています。どちらかというと「当事者が研究者になることによって、公的な場に現れる研究者と隠される当事者という構図は破壊されることになる」(『精神障害を哲学する』、p. 210)とか「精神科における診断名には特有の難しさがあるが、だからこそ、診断は医師が責任を持って下すべき専決事項となっている。(当事者が勝手に付けた)自己病名は、そうした医師の権威への挑戦であり、専門家から苦労を取りもどすための重要な作業なのだと言える。」(『精神障害を哲学する』、p. 227)といった、権威に頼るのではなく当事者が主体になる構えでことは進んでいます。

 わたしは「こんなことまで聞いて良いのだろうかと躊躇(ためら)」いながらも、けっして情報の提供者を傷付けまいと決心しています。しかし、表面的なインタビューでは真意が聴けない可能性があります。その場合は隠された意味を探らねばなりません。わたしの責任の大きさを実感しています。

 女性で難聴のキム・チョヨプさんは『サイボーグになる』の中で、市場経済至上主義と技術革新と非障害者(=いわゆる「健常者」)の勝手なやさしさの思い込みによって、障害者の日常が「見えない、聞こえない」ものにされるさまを描いています。韓国の大手通信会社がAI音声合成技術を使った補装具のコマーシャルに対してです。

何より、『人間的な技術』をアピールするこうした映像は、障害と技術の関係において注目すべき最も重要な問いをかき消してしまう。障害者は日常でその技術を実際どのように感じているのか、どんなふうに使い、どんなことで困っているのか、その技術は本当に障害者にとって必要なものなのか、といった問いだ。人々は、障害者が声で話す瞬間、音を聞く瞬間、車椅子から立ち上がる瞬間を映像で見ているだけであって、普段の生活でも音声合成技術が意思疎通に役立っているのか、初めて聞いた音は本当に喜びなのか、はたまた不快なのか、日常的にウェアラブルロボットを着用して歩いているのか、というところまでは見ることができない。演出された映像は感動や希望を与えてくれるけれど、現実は演出の外側にある。

『サイボーグになる』「障害とテクノロジー、約束と現実のはざま」p. 49

 わたしの希望は、一人ひとりの障害者が現実に住む生活のなかで、彼らの(そして、わたしの)思いを記載することです。


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