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ひまわり泥棒コバト

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2018年8月の記事一覧

ひまわり泥棒コバト 9

 そろそろスーツがしんどい気温だ。私は脱いだジャケットを腕で抱え、滲んだ汗を拭きながらいつもの道を歩いた。ジャケットを脱いだって暑いものは暑い。コバトさんのアトリエへ向かう道。
 私の家からコバトさんのアトリエまでの間に、広い庭を持つお宅がある。その庭でもたくさんの花や緑や野菜を育てているようで、まるでコバトさんの庭はこのお宅の庭の縮小版みたいだ、と私は前を通るたびに思う。
 だからその庭の植え込

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ひまわり泥棒コバト 8

 午前3時までには寝る。昼前には起きる。開店前にちゃんと飯を食う。俺が生活する上で心がけているのはこのみっつだ。
 店が休みの日でも寝る時間と起きる時間はできるだけ守るようにしている。一人で暮らしているとおろそかになりがちなことを、できるだけ自分でコントロールできるようにならなければ。

 今朝は少し早く目が醒めた。9時半を少し回ったところ。俺は散歩に出かける。今日は月曜、店は定休日だ。
 ぐる

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ひまわり泥棒コバト 7

 梅雨明けから少しずつ、夏へ向かっている。わたしは日々の光熱費に怯えて8月に入るまでは扇風機で過ごすと決めているが、湿気と熱は漫画家の大敵だ。湿気でインクはかびてしまうし、暑ければ汗をかきその汗は原稿用紙を濡らす。
 師匠のところでアシスタントをしていた頃は付けペンに黒インクで作品を仕上げていたが、いざ自分がデビューしてみると画材の管理が行き届かない。わたしは自他共に認めるずぼらな人間だ。梅雨時に

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ひまわり泥棒コバト 6

 私はコバトさんの作品を引き出しから引っ張り出した。
「どうです」
 その大きな布を見せると、私の隣にしゃがみ込んでいたコバトさんは笑った。
「本当に僕のですね」
「そうでしょう」
「でも、それ、珍しいものですよね。あまり色数を使わずに織ったから、僕もよく覚えてます」
 そう言ってコバトさんは、青と白の幾何学模様をすうっと撫でた。そこで私は初めて、コバトさんの手は案外に毛深いのだなということを知る

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ひまわり泥棒コバト 5

 編集さんはきっと、仕事熱心な人なのだと思う。今日もコバトさんを探しにうちへやって来た。まだ開店前、仕込み中の午後3時だ。
「大将、コバトさんはいらしてますか」
「…………」
 本当はすぐ返事をするべきなのだろうけど、俺はうずらの卵を茹でなければいけない。今やっとお湯がぐらりと湧き始めたところで、ほんの数秒で硬さが違ってきてしまうから今はそちらよりこちらの事情を汲んでほしかった。
「ねえ、コバトさ

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ひまわり泥棒コバト 4

「おはようございます、編集さん」
 コバトさんは私のことをそう呼ぶ。名刺は渡したはずなのだけれど。
 私はコバトさんのアトリエへ通い詰めていた。上司の命令どおり、足を使って仕事を取るために。
「おはようございます、コバト先生」
「先生はやめてください」
 コバトさんは笑って、凝っているのか右肩をさすりながら門扉を開けて庭へ入った。私が彼の家の前へやってきた頃に、彼も散歩から帰って来たところだったの

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ひまわり泥棒コバト 3

 B5のキャンパスノート。らくがきのようなアイデアたち。どうしてストーリー漫画なんて描き始めてしまったんだろう。デビュー作は四コマだったのに。
 現在連載中の作品、単行本は13巻。ここ一年は休み休みで掲載しているので20の大台にはほど遠い。
「なあなあ、アニメ化の話とか出ない?」
 わたしが訊くと電話の向こうで佐野さんがため息をついた。佐野さんはわたしの担当編集で、顔はそこそこ男前なのだけれど、な

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ひまわり泥棒コバト 2

「今日ね、僕のところに雑誌の取材が来たんですよ」
 いつものようにゆったりとタンブラーを傾けながらコバトさんは言った。少し楽しそうだ。
「凄いじゃないですか。何て雑誌ですか、買いますよ」
 俺が言うと、コバトさんは肩を揺らしてフフ、と笑う。
「知りません。追い返しちゃった」
「ええっ、もったいない」
 コバトさんには才能がある。だから取材の話だって本当は初めてではない。俺はその話を聞くたび、初めて

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ひまわり泥棒コバト 1

「あなたね、これかなりの値打ちものなんですよ。田舎で仙人のように暮らしてる作家が織ったもので同じ模様は二度とない。その中にも彼の個性がじんわりと滲み出ているわけで」
 一ノ瀬はつらつらとその商品への賛辞を並べ立てた。私はただ部屋に敷くラグがほしくてバイヤーをしているこの先輩に相談しただけで、別に御託を聞きに来たわけではない。
 しかし芸術に疎い私でも、それが非常に良いものであるということはわかった

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