ひまわり泥棒コバト 4

「おはようございます、編集さん」
 コバトさんは私のことをそう呼ぶ。名刺は渡したはずなのだけれど。
 私はコバトさんのアトリエへ通い詰めていた。上司の命令どおり、足を使って仕事を取るために。
「おはようございます、コバト先生」
「先生はやめてください」
 コバトさんは笑って、凝っているのか右肩をさすりながら門扉を開けて庭へ入った。私が彼の家の前へやってきた頃に、彼も散歩から帰って来たところだったのだ。
 私が彼について門をくぐっても、彼は嫌そうな顔をしない。そのまま野菜や草花に囲まれたアプローチを進みながら私はコバトさんに言った。
「コバト……さん。今日は先日よりも綿密な企画書をお持ちしました」
「それは無駄な時間を使わせてしまって申し訳ないことをしました。渡されても僕は読まずに捨ててしまいますから」
 もうずっと、コバトさんはこうだ。私に仕事をさせてくれない。
「では、個人的な質問をさせてください」
「なんです」
「なぜそこまで、取材がお嫌いなんでしょう」
 私の質問にコバトさんは微笑んだまま少し考えるように小首を傾け、眉をハの字にくたりと下げた。
「嫌いかどうかはわかりません。受けたことがないので」
「なら、どうして?」
「一人で、している仕事なので」
 言い聞かせるようにコバトさんは言った。ひとり、という言葉は不思議な重みを持って私の脳へ飛び込む。この人は、ひとりなのだ。
「でもそれ、答えになってますか?」
「編集さんの作る雑誌に載れば、きっと僕の仕事は増えます。増え続けます。お待たせしてしまうお客さんが増えます。人を待たせるというのは、その人の時間を奪うことです。僕は泥棒になってしまう」
 コバトさんはつらつらと述べながら玄関の鍵を開けた。ガチャ、と古そうな重い鍵の音がする。
「その先にあなたの作品という対価があれば奪うことにはならないのでは?」
 私が言うとコバトさんは振り返り、微笑んだ。
「編集さん、朝ごはんは食べました?」
「え?」
「僕はこれからです。ご一緒にいかがですか」
 コバトさんが開いたドアの隙間から、懐かしい匂いがした。ああこれ、おばあちゃんちの匂いだ。
 私は空腹を感じていなかった。コバトさんの朝食。何を食べるのだろう。興味はあったが、コバトさんとは違い時間に追われる身である私はコバトさんにつきまとう以外にも仕事があった。
「まだです。朝は食べない派なので」
「それはいけない。体が持ちませんよ」
「ずっとこれでやって来ましたから」
 私は鞄から企画書の束を挟んだファイルを取り出すと、それをコバトさんに押し付けた。「読まなくてもいいです。裏は白なので、切って電話の横のメモ帳にでもしてください」
「では、そうします」
 きっと本当にそうするだろう、この男は。
「私はこれから出社します。また来ますからね」
 念を押すように言うとコバトさんははいはいと頷いた。
「おすすめのお店があります。僕の代わりにそこを取材されてみては?」
 コバトさんは言って、下駄箱の上に置かれていたボールペンを取ると私の書いた企画書を一枚破り、その裏にさらさらと何か書き始めた。そこには「やま」という店の簡単な地図と夜はここにいます、という言葉が添えられていた。
 コバトさんから企画書の切れ端を渡された私は、とても穏やかにコバトさんのアトリエから追い出されてしまったのだった。 

「やあ、本当に来ましたね」
 コバトさんは微笑んでカウンター席に座って、生湯葉をつまみに先に一杯やっていた。「やま」はカウンター席が9つしかない小さな焼鳥屋で、私とそう歳の違わなさそうなまだ若い店主一人で店を回しているようだった。平日だからなのか、私たちの他には常連と思しき壮年男性客が一名のみ。
 私は肩を落としながらコバトさんの隣に座った。ていねいな暮らしのマダム方はきっと、店に入っただけで服に匂いがつきそうな焼き鳥屋を好まない。
「大将、この人がさっき言ってた編集さんです」
 コバトさんに促され、背の高い店主はどうも、と会釈をする。涼しげな一重まぶたに筋の通った大きな鼻は、昭和の二枚目のような顔。
「ああ、ええと。月刊ルオーノの畑中と申します」
「あ、ありがとうございます」
 私が差し出した名刺を受け取りながら、大将の顔が僅かに曇った。私の担当する雑誌は決して知名度の低いものではない。彼もそれを読んだことはないまでもどんな雑誌かはわかっていたようだ。我々は住む世界が違うのだ。
 そしてコバトさんも、それをわかっていたに違いない。物腰は穏やかだが、根性は曲がっていそうだ。
「好きなもの食べてください」
 コバトさんはそう言って筆文字のお品書きをラミネートしたメニュー表を私の目の前に置いた。串は高くて140円、サイドメニューも300円を超えるものは少ない、随分と良心的な価格設定だ。これでこの店はやっていけるのだろうか。
「……生中と、ぼんじり、せせり、もも、心臓」
「編集さん、野菜も食べなけりゃ」
「好きなものを、と言ったのはコバトさんでしょう」
「そうでした」
 薄暗い焼き鳥屋で見る酔っ払いのコバトさんは、明るい外で見るコバトさんよりも上機嫌だった。
「全部、コバトさんのにつけておいていいんですか」
 大将が訊くとコバトさんは頷く。
「ええ、今日は僕からお誘いしたので」
 それを聞いて大将はカウンターの内側に並んだ伝票にペンを走らせた。私のビールと焼鳥がコバトさんの伝票に足される。
 店主に名前を知られるほどコバトさんはこの店に通っているようだった。しかしその間に多くの言葉が交わされるわけではなく、コバトさんは静かにタンブラーの中のお酒を舐め大将は壮年男性の野球の話に相槌を打ちながら私のぼんじりたちを焼いていく。
「僕、この店好きなんです」
 ぽつり、コバトさんが言った。私は何も訊いていないのに。
「煙たいところがお好きなんですか」
 泡がしゃりしゃりと凍るほど冷えたビールをあおりながら、私はコバトさんの玄関のドアから流れ出た匂いを思い出していた。あれは線香の匂いだ。
「ここはあまり賑やかすぎなくて、でもまったく静かなわけでもないでしょう」
 コバトさんの言う通り、他の客と大将の会話は不快なほどうるさくもなく、静かすぎて息が詰まるような雰囲気もない。かといって、突出した魅力があるわけでもないのだけれど。
 目の前に出された串の中に、タレのネタは一本もなかった。ぼんじりは塩でもいいのだけれど、私は心臓はタレが好きなのに。そういえば、注文した時にタレか塩かの選択を迫られなかったことを思い出した。
「大将、心臓もう一本。次はタレで」
「ごめんなさい、塩しかないんです」
 申し訳なさそうな大将の声に私は耳を疑う。タレか塩かは店主にお任せください、という店ならば聞いたことがあるけれど、タレすらないというのか。
「塩、しか?」
「大将のこだわりなんです」
 コバトさんはにこにこしている。「どうです、話題になりそうじゃないですか? 塩にこだわった焼鳥屋、って」
「うちの雑誌ではあまり」
 私は努めて冷たく言い切ってやったつもりだったが、コバトさんはそうかなあと肩を揺らして笑う。
 要するにこの人は、自分の曲がった根性を見せつけて私に諦めさせようとしているのだろう。その魂胆が見えている以上、私も引き下がるわけにはいかない。
 しかし、やまの焼鳥がおいしいのは確かだった。うちの雑誌向きではないけれど。塩も捨てたものではない。なのにコバトさんは、焼鳥には一度も口をつけなかった。
 私は一ノ瀬が初めにした話を思い出した。仙人は、肉を食べない。

#小説

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