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岡田航之佑の大学4年間

こんにちは!
岡田航之佑です。
卒業はまだしていませんが、ドイツへ移住しますので
卒業式には参加できません。
なので、最後の授業を持って
事実上卒業とさせていただきました。

今日は僕の大学4年間を振り返ろうと思います。
おそらく、かなりの長文になると思います。

目標を持って生きたい人には参考になるかもしれません。
また、この記事を通して岡田航之佑という人物を知っていただければ幸いです。

では、僕の4年間をどうぞ。


大学1回生

入学

近畿大学附属高校から天理大学体育学部へ入学した。
それは「体育の教師」になる為にこの大学へ来た。
当時の僕は、教師になりたかった。サッカー推薦でこの大学へ入学したが、高校に比べて熱量はそう高くなかった。
でも、僕はサッカーをやると決めたからには本気で取り組んだ。
高校卒業と共に発覚した膝の怪我を持って大学サッカーを始めた。
それは手術のできない厄介な膝の怪我だった。
簡単に言えば、半月板が擦り減っていたのだ。

僕は注射を打ちながらサッカーに打ち込んだ。
この一年間はひたすら、サッカーと大学の授業とバイトに打ち込んだ。

結果として、サッカーではリーグの優秀選手に選ばれた。
またプライベートでは、一人暮らしながらお金が貯まり余裕が出てきた。

今、思い返せば1回生の時は「ただ大学生活に慣れるための時間」だった。
濃い時間を過ごしたかと聞かれればそうではない。
駆け抜けた一年だった。

大学2回生

自分の夢に対する疑い

徐々に膝の痛みが増してきた。真剣に選手の引退を考え始めていた。
それと同時に「自分は教師に向いているのか」という疑問が浮かんできていた。
そう思った理由は「人に期待できない」「自分が好き」「自分の力を社会でもっと試したい」だった。これらは正直な理由である。

膝の限界

先にサッカーから述べていこう。
一回生の時に比べて間違いなく注射の本数は増え、頻度は増えた。
すると身体が慣れてきた。
思いっきりプレーすることが出来なくなり「次、逆脚(右膝)をやったら引退しよう」そう覚悟を決めていた。
新チームが始まり怪我からの休養から復帰し、最前線で戦った。
学生リーグと同時に新人戦も行われた。
これが僕のターニングポイントだった。
ハードスケジュールに膝が持たなくなり、新人戦最後の試合のアップで右膝の側副靱帯が切れた。あの音は今でも忘れられない。
しかし、その試合は90分試合に出た。
それが僕の選手人生は最期になった。

学生コーチになり、自分の人生と向き合い始めた

それ以降、僕は学生コーチになりマネジメントを学ぼうと思った。
そこから僕の人生は動き出した。
冒頭の「自分に教師は向いているのか」という疑問を掘り下げていこう。

選手を引退して、人生を考える時間が出来た。
サッカーしかしてこなかった自分は「今のおれに何があるのか」
そう疑問に感じていた。

そこから大学の3回が始まるまでひたすら考えた。
ただただ毎日、これからの人生について考えながら生きた。

この一年を今振り返るなら「辛い時期もあったけど、あれが人生の転機やったんかもしれへん」って感じ。
新しい事を始めるワクワクと今まで身体の一部やったサッカーとの別れ。

大学3回生

Bチームの監督に就任

大学のBチームの監督になっていた。
「何かしないと、腐ってしまう」そういった焦りがあった。
また、ある一つの好奇心でもあった。
新しい視点でのマネジメントを学んだ。
結果は思うようにいかなかったけど、間違いなく勉強になった。

本当にしたいことは何か

大学3回生が始まるころに、僕は「人生の方向を決めなければ」と思っていた。
やりたいことがない。と人々はよくいう。
それは当たり前のことだと思う。
実際やりたい事って見つかるものじゃない。見つけるものだ。
僕の場合はこうした。

自分のワクワクすることと、長所を書き出した。
例えば、
僕の場合だとリーダーシップとコミュニケーション能力に自信があった。
そして、健康に興味があった。

リーダーシップとコミュニケーション能力を最大限に活かせる仕事は?
経営者。
今、自分が持つ専門的な価値、好きで得意な分野は?
身体作り、栄養学。
今、社会に出て、お金を稼ぐなら何ができる?
飲食店でずっと働いているし、その仕組みを学んでいるから
飲食店。
何が好き?
健康的な食事、トレーニング、健康的なマインドを作ること。
最後に、これらの事で全てがマッチする職業は?
健康産業で飲食店とジムを経営すること。
「食」を介して心身の健康と世の健康を。
そこで僕は結論をだした。

やりたいことは自分で見つける。
そして、自分でレールを引いてそこを走る。
ただそれだけ。
勿論、他にも沢山道はある。
あれも、これも。と行ってたら気づけば時間が過ぎる。
だから自分の直感を信じるんだ。
思うままに道を切り拓けばいい。

したいことの見つけ方

少し、話しが脱線してしまった。

I先生との出会い

大学の3回で僕は、ある人と出会った。
それは僕のゼミの先生、I先生だ。
この先生との出会いが僕の人生の可能性を広げてくれた。

オリックス・バファローズ マーケティングプレゼン

オリックス・バファローズの新規事業を提案する「マーケティング・プレゼン」というのをゼミでチームを組んで行った。
フィールドワークをして、データを集め、分析し、結果から提案を考え、発表をした。

結果は、素晴らしく上手くいった。

そして、僕は天狗になって、翌日の先生の授業を受けた。
授業開始前に、他の生徒がいる前で、怒号が飛んできた。
「まずは、先日はありがとうございました。やろが。」
文章だけでは伝わりにくいが、あの時、僕は怒られた。
先生は間違った事を言っていない。
僕は嬉しかった。
「まだ、僕に怒ってくれる先生がいるなんて。」
どれも当たり前で常識的な事だ。

それ以降、僕はその先生に指導を仰いだ。
先生が誘ってくれた研究や学会には全て参加した。

オリックスのプレゼンが終わったのは、12月だ。
この一年間は、そこに尽力していた。

残り3カ月は、沖縄へ日本ハムファイターズの研究とドイツと宮崎遠征だった。

ここで明言しておこう。
僕はこの12月の時点では、日本で起業するつもりだった。
その為にずっと事業計画を書きだしていた。

僕は、残りの3カ月で人生が大きく加速した。


沖縄 日本ハムファイターズの現地調査

I先生の研究である、沖縄へ日本ハムファイターズの研究だ。
研究内容も面白かった。
現地でキャンプを観戦している人達の動機などの研究だ。

僕はその研究も勿論、勉強になったが
その日の夜の研究にいったメンバーでの会食の時に先生から言われたことが忘れられない。

「航之佑、卒論、起業してそれを軌道に乗せた証拠を見せてくれたらいいよ」
僕は衝撃を受けた。
言葉には表せない嬉しさがあった。
僕の背中を押してくれたのだ。

ドイツ スポーツ交流実習

沖縄から帰ってきて3日後、ドイツへ飛び立った。
正直なところ、移動の疲労から、めっちゃ楽しみでいったかと言われればそうではなかった。
でも、それが良かった。と今になって思う。

結論から言おう。
僕は、この実習でドイツが好きになった。
そして、ドイツで生活しようと決めた。

日本との違い。
価値観が大きくかわった。
「もっと自由でいいんだ」そう思えた。
僕の生きる場所はここだ。世界だ。とおもった。

個人主義であるドイツに惚れた。
そして、歴史も好きになった。
まだまだ分からないことが多いが、僕の直感が働いた。

宮崎 遠征

僕はこの遠征で初めて、コーチとして帯同した。
選手の時とは違う視点。
間違いなく、選手よりかは体力的には楽だった。
選手の本業は試合で結果を残すこと。
コーチの本業は選手たちにできるだけベストの状態で試合に挑んでもらうこと。
慣れない立場だったが、勉強になった。

そして、宮崎の朝焼けは何よりも素晴らしかった。
毎朝5時に起きて散歩に出かけた。
朝焼けを見て、自分と向き合った。
精神が研ぎ澄まされていた。
それがとても気持ちよかった。

この1年間で間違いなく、成長したし価値観が大きく変わった。
今振り返れば「濃い時間を過ごしたな。本気で自分と向き合ってよかったと思う」と今の僕は思う。

この大学3回生で人生の方向が決まった。
後は自分で道を切り拓いていくだけだ。

でも、そんな明るい話だけではなかった。

大学4回生

先にサッカーの話をしてから、プライベートの話をすることにしよう。

学生コーチ兼キャプテン

大学2回生の時に怪我をして引退してからキャプテンをするつもりはなかった。
なぜなら、選手がキャプテンでなければチームを鼓舞することは難しいと考えていたし、共感がしずらくなるからだ。
だから、当初はもうキャプテンはできない、しない。と言っていた。

しかし、大学3回の夏に監督から言われた。
「おれは岡田にキャプテンをしてほしい」
僕は「いいんですか!?」とびっくりしたのを覚えている。
また、監督は普段は自分からキャプテンを選ばない。
だからその嬉しさもあった。

そして、選手たちと話し合い、自分の立場を理解してもらい
学生コーチ兼キャプテンに就任することになった。

始めは順調だったが・・・

6月くらいまでは順調に来ていた。
だが、ある都合により、
サッカー部の大人らが退任されていった。

すると自動的に僕が監督の立場になった。
正直に言うと
ワクワクはしていたが、望まない立場だった。

監督兼キャプテン

なぜ、望まないか。
それは、同い年の人間にメンバーを選考されるというのは
選手からすればどう感じるだろうか。
特に外される選手はどう思うのだろうか。

僕は客観的で平等な判断がしたかったから、次第に選手との距離を置いていった。
これが僕の最大の過ちだったかもしれない。

どんどん、自分の心から情が無くなるのを感じた。
そんな心で選手たちと接するのが何よりも辛かった。
でも、自分の心ではこう言い聞かせていた。
「全ては勝つため。結果を出すため。」

もっと器用な人間なら、選手との良好な関係を築きながら
チームビルディングが出来たと思う。
でも、それが僕にはできなかった。

でも、それが一つの課題という収穫でもあった。

残り3節を残して

チームは優勝が目の前まで来ていた。
でも、僕は正直こける気がしていた。
そして案の定、こけた。

理由はいくつかある。
今だから言えることだが、僕はサッカー以外に学会の準備や渡独の手続きに追われていた。(これらは後で書く)
多忙を極めていた。
正直、サッカーだけに集中することはできなくなっていた。
それが何よりも申し訳なかった。

僕はこのままでは優勝どころか昇格できなくなると感じ
4回生だけ練習参加させず、部室で話し合うことにした。

この時、初めて腹を割った話が聞けた。嬉しかった。
僕に言い辛いこともあっただろう。
しかし、それがあったから今がある。

前任の監督が辞めた時点で次の監督が来ていた。
僕はその監督と一度、大きく揉めた。
それが夏だった。この残り3節まで彼との間に見えない壁があった。

話し合いの結果。
その来てくれた新しい監督にお願いすることにした。
僕はプライドを捨てた。
始めからプライドなんて持ってないと思っていたが
心のどこかにはあった。
その時に思った。「周りからどう思われてもいい。彼(新しい監督)に失礼な事をした代償だ」と。
僕は立場が無くなった。
居なくても良いと同然だった。
僕は全てを受け入れた。

結果、優勝した。
紛れもなく、新しい監督とそれに順応した選手たちの結果だ。

僕は心の中で誓った。
もう二度とコーチや監督はしない。

僕はわかっていた。
自分が監督になった時点でハッピーエンドは無いことを。


韓国での学会

時系列を戻そう。時は8月。
学会というのは、研究したことを発表しにいくこと。
僕の専門の分野は「スポーツビジネス」
韓国ではオリックスについての研究を発表しにいった。

英語での発表だった。
資料も原稿も何もかも英語。
全ての資料が出来上がったのは、韓国に行く前日だ。
あの時は何度も心が折れそうになった。
今思えば、楽しかった。

韓国に着き、日本人チームが合流した。
色んな大学から、同じような志を持った人間が集まったら
とてもワクワクするし、話が弾む。

そして、会場に入ると
飛び交う言語は韓国語か英語か日本語
とても刺激的だったのを覚えている。

そこからレセプションパーティーがあり
皆と交流した。
すぐに友達ができ、お酒をかなり飲んだ。

今でも、韓国で出会った人たちとは連絡を取り合う仲である。
日本チームも韓国人チームも。

色んな凄い先生たちを目の前に、
僕はこう感じた。
「おれなんかが、くる場所ではない。」
まともに勉強したことない人間が来て良い場所ではなかったが
僕は自分の好きな分野を発表した。
机上の勉強ではなく、好きな勉強をするべきだと感じた。

その後、解散になり
僕は梨泰院で泊まって朝に帰国することにした。
梨泰院クラスが好きで、一度は行ってみたかった場所。
願いが叶って、とてもハッピーだった。

事件は、その次の日の朝。
僕はグーグルマップの電車とバスの表記を間違えて
フライトに遅刻しかけた。
タクシーを使って間に合ったが
あの時は、焦りを感じた共に不自由で何もできない感じが
楽しかった。

この学会である先生とその生徒さんと出会った。
僕は彼らに誘われて、次の学会にも行く事を決めた。
それは鹿児島の鹿屋体育大学である日本生涯スポーツ学会だ。

鹿屋体育大学にて日本生涯スポーツ学会に参加

韓国で出会った先生と先輩たちに会うためにこの学会に参加した。
ここでは僕自身の研究を発表した。
簡単に説明すると、トレーニーはなぜサプリメントや健康食品を買うのか。
というマーケティングの分野の研究をして発表した。

僕はここでの懇親会で多くの教授から名刺を頂きドイツにあるケルン体育大学へのコネクションを得ることができた。

学会は本当に出会いの場であると思っている。

ドイツへ

この章で、僕の大学4年間は終わりを迎える。

このドイツは色んな縁があって今日に至る。
全てを書きたいけど、僕の体力がもうあまり残っていないから
ここの冒頭に書いてるから見てほしい。

いよいよ明日、ドイツに旅立つ。
ワクワクと不安が入り混じる。

目的地まで上手くいけば48時間でつく。
勿論、ベットで足を伸ばすことなんてできない。

覚悟を決めている。

でも、僕はこの決断をしてよかったと思う。

常に「ヤバイ」と思っていたい。
死ぬこと以外はかすり傷。
人生はただの暇つぶし。
それなら、いけるとこまで行けばいい。
結局は人生は自己満足みたいなものだ。

僕には覚悟がある。
乞食をする覚悟があるか?
最後まで生きることを諦めない覚悟はあるか?

そう、僕には失うものなんてない。
僕の全てを持って世界に挑戦する。

これより話しだすと僕の人生目標や価値観の話になるので
今回はお預け。
興味がある人は、僕のXかInstagramに連絡ください!
1on1で話しましょう!

最後に

今回は、僕の全ての行動を書いてきた。
正直、上手く書けてない所の方が多い。
それは僕とオフラインで会った時はオンラインミーティングで話したときに、すべてをお話します。

僕がここまで色んなことができたのは、
紛れもなく「人との出会い」です。
僕は本当に恵まれていると思っている。
そして、運がいいとも思っている。

沢山の大人にお世話になった。
そして、可愛がってもらった。
今でも連絡をとらせていただいている方が多い。
本当に感謝している。

運は人が運んでくるもの。
だから、人との繋がりを大事にしてください。

追伸 僕が大学1回生に戻るなら

今の人生に後悔はありません。
でも、僕は大人の人にいつも質問することがあります。
「もし20歳に戻れるなら、何をしますか」

今。僕がこれに回答するなら、こう答える
「思い付いた事を全てする、そして大失敗をする」
今思えば、過去なんて大体は笑い話。
また、悔しい記憶は行動の糧になる。
考えている暇があるなら、動け。
そう言いたい。

20歳の脳なんて知れてる。
だから、体力と若さを武器にして何でもしたらいい。
恥ずかしいとか思っているうちは、夢はかなわない。
自分を信じて、自分を愛して。

とにかく、好きな事をやろう。
そして、会いたい人に会おう。

こんなもんかな。

僕もまだまだ、若いけど皆に負けてられないぜ!

では、またね!
YouTubeやってるので見てね!
こうのすけ日記

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