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私の履歴書(10)訪れた転機

21世紀になり、銀行員十年選手になった自分は、漠然とした不安を抱えていました。

その数年前に結婚し、長女が生まれ、マンションを購入して、住宅ローンを組んだばかり。更に、妻のお腹には二人目の子供を授かっていました。この状況下で、仕事に対する疑問を抱えながら、職場を辞めるわけにもいかず、悶々とした日々を送っていたのです。

ある日、自席で仕事をしていると、法人課の仲の良い先輩から声がかかりました。「僕の元同期が窓口に来てるんだけど、投資信託に興味があるんだって。応対してくれる?」

元銀行員のKさんは、仕立ての良いスーツと、茶色い革製のダレスバッグが印象的な方でした。名刺交換すると外資系生命保険会社の名前が書かれていました。名刺の上の方に、金文字で”MDRT”(Million Dollar Round Table。世界の生命保険募集人の内、上位数パーセントの人だけが入会できる組織)とのマークが誇らしげに印刷されています。

落ち着いた所作から、保険業界で成功していそうな雰囲気を感じました。

「ははーん、保険のセールスマンか。もしかして、自分がターゲットなのかな...」

そう思いながらも、普段高齢者ばかりと面談している自分にとって、30歳台の顧客から投信の相談を受けるのは魅力的な話です。すぐに応接室に通しました。

Kさんは、とても紳士的で、私の説明を熱心に聞いて下さいました。席を立つ時、「すえきちさんの話は、とても分かりやすいですね」と仰ったのを覚えています。

その日は概略の説明だけで、数日後、投資信託の申込に至りました。手続きを終えた後、すっかり仲良くなったKさんから、「すえきちさん、今度、私の保険の話を聞いていただけませんか?」と言われました。

「あー、来た来た。やっぱり思った通りだ」

とは思ったものの、相手は、まとまった金額で投信を買っていただいた顧客です。「一度聞いてみるか。嫌だったら断ればいいし」と思って、「はい、いいですよ」と快諾しました。

その二週間後、こちらが休みの日に、自宅の近くで面談しました。

「トップクラスの営業マンのセールストークを聞かせてもらおうじゃないか」

保険のセールスを受けるのは、多くの人がきらうものですが、私はそれより、興味の方が勝っていました。

Kさんは、短い雑談の後、おもむろに、こう切り出しました。

「ところで、すえきちさんが生命保険に入っている目的は何ですか?」

いきなり本質を突くような質問に当惑しました。ハッキリと覚えていませんが、おそらく「家族のためです」と答えたと思います。

彼は、それを深掘りしながら、私からニードを引き出していきました。彼が使うツールは、商品パンフレットや提案書ではなく、レポート用紙と青い水性ペンだけ。そこに、私から聞き取った内容を書き、それに沿って話を進めていきます。

生命保険のセールスに対するイメージとは程遠い話法。既成概念が壊されるのを感じました。これまで、ここまで抽象的な話に徹する営業トークにお目にかかったことはありません。軽いカルチャーショックを受けました。

「自分のセールスとは、まるで次元が違う」

何とも、恥ずかしい気持ちになりました。

家に帰って、すぐに妻に伝えました。

「僕、Kさんから保険に入ることにしたよ」

いきなり私にこんなことを言われた妻は、目を白黒させていました。

この時点で、私は具体的な提案を何も受けていませんが、これまでの生命保険のイメージを、良い意味でぶち壊してくれたKさんと、その営業手法に心酔してしまったのです。

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