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優しくするのは優しくされたいから、でいい。

無償の愛を与えること、リターンを求めず何かに尽くすこと、心から誰かの幸せを願うこと。

究極いつか自分もそうなればいいなとは思っているけど、実際はそんな簡単ではなく、人生、理不尽と理不尽の盛り合わせみたいな定食を、注文もしていないのに食べろと突き出されるような日々。

私だって昔は「いい子」を誇らしく思うタイプで、神様が見ているから、心の中までいい子であろうとしていた。物騒な言葉が思い浮かんでも、「今の無しで!」と神様に懇願したりして。

大人になってからも、人気の自己啓発本を読んでは「他人はコントロールできないのだから、自分を変えよう」とか、「見返りを求めないほうが気持ちがいい」みたいな言葉を胸に、”与える人”になろうとしたこともあった。

でももうそんな、善の感情が無限に湧きだして人々が愛で満たされる世界線は、今となっては幻想にも近く、本当に、与えるだけでその人は満足できるのか、そんな聖人がどれほどいるのかと考える。

私から見るこの世界は、山の頂上をめがけて蹴落としたり蹴落とされたりする競争社会というより、でかい「時代」という大波に、それぞれがそれぞれの人生を背負って何とか船を漕いで乗り越えようとする一種の競技のように思う。「時代」が一つの器なら、もしかしたら横を漕いでいる他人は、敵というより同じ競技に取り組む同志なのかも。

ただ、誰が波に飲み込まれようが、荒波は止まらないし、先頭に立ったからといって島にたどり着けるわけでもない、大きな波をそれぞれの場所で耐えて、漕ぎ続けるだけの競技。

1人1人がそんな戦士だとすると、美しい感情を無限に与えることよりも、「お互い良い人生にしたいっすよね?なら少しでもやりやすくしていきましょうよ」と、優しさや愛を分け合ったほうが幾分かマシに思える。

「利己的な利他」という言葉を目にしたことがあるが、まさにそれだ。

今親切にしたことで、未来の自分が助かるなら、親切にしておいて越したことは無いし、優しくしたら優しくされる確率が上がるわけだから、優しくしないよりずっと良い。

だから、「私が優しいのは、優しくされたいから」という理由で、他人に優しくすることに、なんの違和感もない。その感情を間違っていると、誰も、神様だって言えないはずだ。

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