神様の言葉を聞けるようになるためには? Can You Listen to God?
神様を受け入れ、神様と共に生きていくことを決意し、クリスチャンになった後、通常、クリスチャンの皆さんは教会に通いますが、
実際には、長い間、教会に通っていても、聖書についての正しい理解と解釈ができていない人たちは意外と多いです。
その背景には、多くのクリスチャンたちは、聖書を持っているだけで、自分たち自身で聖書を探求するということをおこなわず、教会で聴く説教だけに頼っている状態であることや、牧師の皆さんが語る説教が難し過ぎてわからないということもあるかもしれません。
あるいは、説教とは名ばかりで、まるで聖書をただ、音読しているだけのような『音読会』のような説教であったり、なかには、残念ながら、正しくない聖書解釈を教えている教会もあったりします。
最近は、インターネットを通して、さまざまな教会が礼拝や説教をオンラインで放映しておりますので、どのような説教をおこなっているのかを知るために、オンライン説教というのを拝見いたしますが、
残念ながら、どの教会も同じような形式でおこなっており、わかりにくい説教が多いことをお見受けしております。
特に、日本の教会では、多くの牧師の皆さんたちは、聖書の内容を難しく語るという形式を取っていることが多く、残念ながら、一般の人たちには、伝わらない説教になっている場合が多いように思えます。
それは、もしかしたら、教会が所属しているしている教団側のルールに則っているからなのか、それとも、人々には難しく説教をする必要性があるということを、神学校で学ばされるからなのか、私にはわかりません。
おそらく、多くの牧師の皆さんたちは、「神の御言葉を人々に正しく伝えたい」という思いを持っているのだと私は推測いたしますが、
もしも、多くの牧師さんたちが神学校で学んでいることを忠実に守っている結果、もしも人々に伝わらないような説教になっている、
あるいは、クリスチャンの皆さんたちの心に、福音伝道の火を付けない魅力的ではない説教になっているとしたら、
と、疑問に思ってしまうのは私だけでしょうか。
通常、日本の教会でおこなわれている説教の種類には、
という2種類の説教の形式があるようですが、インターネット上で、日本の教会の説教を拝見させていただく限り、多くの日本の教会では、
(1)講解説教・・・こうかいせっきょう(別名:講解連続説教)
という形式を使用している場合が多いことをお見受けしております。
講解説教は、聖書のなかの一定の文書を連続して説き明かしていく連続講解説教を意味しており、今日では、日本の教会では、教派を問わず、講解説教が主流になっているとのことです。
しかし、色々と調べてみますと、日本のプロテスタント教会の過去150年の歴史においては、昔の日本では、連続講解説教が主流となることはほとんどなかったとのことで、昔の日本では、主題説教の形式で説教を語る説教者が圧倒的に多かったとのことなのです。
なぜ、今日の日本は、主題説教を止め、連続講解説教が主流になったのでしょうか。
世界的に有名な伝道者であったビリーグラム牧師(日本ではビリーグラハムと呼ばれています)や、世界的に有名な伝道者でもあり、私が尊敬する師でもあるドクター・スタンリー牧師の説教の形式は、
(2)主題説教・・・しゅだいせっきょう
なのです。
主題説教の場合、通常、神様の言葉である聖書で学んだことを、現実の私たちの生活の中で、どのようにして活かしていくのか、というようなことを学びます。
聖書は、単なる歴史書ではありませんし、私たちは聖書という”学問”を学んでいるわけではありません。
聖書は神様の言葉なのですから、その神様の言葉を、実生活の中でどのように活かしていくべきかを、私たちは学ぶ必要があると思うのです。
そうでなければ、聖書は単なる『机上の空論』になってしまいます。
※机上の空論とは、実際には役に立たない理論や考えを意味します。
ちなみに、アメリカの多くのプロテスタント教会では、主題説教という形式の説教が圧倒的に多いです。
その甲斐あってか、最近のアメリカでは、若年層のノンクリスチャンの皆さんたちがクリスチャンになる状態が、益々、増えています。
講解説教という形式を非難するわけではないのですが、ただ、ひとりのクリスチャンとしての見解をお話させていただきますと、
●多くの講解説教は、説教の主旨が何であるのかがよくわからないものになっていたり、
●説教のタイトルと説教の聖書箇所の内容がマッチしていないものになっていたり、
●あるいは、抽出した聖書箇所の『あらすじ解説』になっているケースが多いように思えます。(苦笑)
最近では、若い年代のクリスチャンの皆さんたちの教会離れが増えているということを耳にしますが、
その理由のひとつには、教会での説教が、クリスチャンの皆さんたちの心に、福音伝道の火をつける魅力的な説教になっていない、ということが含まれていると推測いたします。
この講解説教と主題説教の違いにつきましては、話し始めるとキリがありませんので、別の記事で詳しくお話させていただきたいと思います。
私の夫は、アメリカで神学校を卒業しているのですが、夫曰く、「神学校にも色々な種類があるから、必ずしも、すべての神学校が良いとは言えない。」と言っておりました。
先日、私が通っている教会での説教の際に、私の教会の牧師であるDr. Anthony George は、教会での牧師の役割をこのように話しておりました。
マッチをすって、火花を出し、火を灯す。
人々の心の中に、神様、イエス様の福音を伝道したいという思いである『火』を灯す。
この『火花を出す』のが、教会での牧師の役割のひとつだと、私の教会の牧師である Dr. Anthony George 牧師は言っておりました。
私が時々、説教を聞く牧師さんの中に、アーサーホーランド牧師がいます。
アーサーホーランド牧師は、伝道者として非常に有名な方で、非常に熱い情熱を持ち、日本での伝道活動をおこなっていらっしゃる方です。
しばらく前に、アーサーホーランド牧師が言っていたことの中に、
「日本では、なぜ、福音の伝道が浸透しないのか?」
というお話がありました。
アーサーホーランド牧師が言っていたことは、
『多くの日本の教会は、教会の中だけで完結している』
ということです。
この言葉の意味は、
ということでした。
私は、アーサーホーランド牧師のこの話に、かなり同感です。
福音の伝道というのは、必ずしも、どこかに行って、人々の前で説教をすることではありません。
伝道とは、日々の生活の中で、自分が体験した『神様との経験』を、少しでも構わないので話すということです。
たとえば、もしも誰かが、「自然って素晴らしいですよね。」と言ったら、
と答えることも、福音伝道のひとつです。
あるいは、もしもあなたが、誰かに親切な手助けをした際、相手があなたにお礼を言ってくれたら、
と答えることも、福音伝道のひとつなのです。
もしも、福音を伝える方法がわからないという方は、ぜひ、こちらの記事をご覧になってみて下さい。
この福音の伝え方を知ったら、もしかしたら、あなたは福音伝道の簡単さに驚くかもしれません(苦笑
しかし、多くの教会では、『伝道』という言葉を、何やら、難しいもののように表現している傾向にあり、本来の伝道の本質を見失っているように思えます。
今日の多くの教会では、
と考えている人たちは、おそらく、かなり多いのではないかと私は思います。
などといった間違った考えが、多くのクリスチャンの人たちに植え付けられているのではないでしょうか。
そのためには、あなた自身が心豊かな生活を持っていて、あなた自身が元気で活力があり、あなた自身が幸せに見えるような人になっていることも大切です。
理由は、もしもあなたが、元気がなく、死んだ魚のような目をしていたり、不健康そうで病弱に見えるような状態だったり、あなた自身の生活が乱れているとしたら、
仮に、誰かが、あなたから神様に関する良い話を聞いても、その人はあなたが言っていることを信じる気持ちになれないと思うのです。
だからこそ、私たちは、自分たち自身を観察し、
などといったことに、着目していくことが大切です。
もしも私たちの生活や行動が、神様の目から見て正しくないものである場合、私たちはそれを変える必要があります。
聖書では、私たちの身体は、精霊が住む神の家だと言っています。
そのため、私たちは、自分たちの肉体を気遣い、精霊が住む場所として相応しいものにする必要があるのです。
神様は、体は、神様があなたがたに与えてくださった聖霊の家であって、聖霊がそこに住んでおられると言っております。
とても素晴らしいことだと思いませんか?
私がクリスチャンになったばかりの頃、
『精霊で満たされる』
という言葉を聞いても、その当時の私には、さっぱり、意味がわかりませんでした。
しかし、今はわかります。
神様が、私を神様を深く求めてる者に変えてくださったおかげで、今の私には、精霊で満たせれることがどのような状態であるのかがわかるようになりました。
神様は、神の子供として生きている私たちには、神様から精霊(ホーリスピリット)が与えてくださり、
私たちの身体は、精霊の家であるからこそ、私たちはひとりではなく、いつも精霊に満たされた自分でいられるわけです。
実は、人間という生き物は『一体感』を求める生き物であり、神様を受け入れていない人間たちは、何かと一体感を持ちたいが故に、偶像崇拝に向かってしまうのです。
多くの人間は、自分の満たされない部分を、お酒やドラッグ、ギャンブル、お金の浪費、異性関係、SNSやインターネットなどで満たそうとしているのです。
しかし、私たちは、精霊が私たちの内に留まってくださるからこそ、心穏やかに毎日を過ごすことができるのです。
私たち人間は、本来は、神様と一体感を持つように創られていますので、神様との一体感を持つ以外に、人間は安心感と満足感を得ることはできないのです。
神様は、私たちを完全に守ってくださる存在です。
神様に頼っていくからこそ、私たちは安心して暮らしていけるのです。
もしもあなたが、神の子供として生きているのであれば、神様が言うとおり、あなたの身体は精霊の家であり、あなたは精霊と一体感を持つことができているはずです。
聖書では、このように言っております。
私たちが大切にしなければいけないことは、神様が私たちの仕事ぶりを評価される時、胸を張っていられるような働き手になることです。
聖書は、神様から『神の子供たち』に向けてのメッセージが書かれてありますので、
神の子供として生きている私たちは、『神様の言葉である聖書を正しく理解する』ということを、ひとりひとりが、熱心に求める必要があります。
教会の説教だけに頼っていてはいけません。
もちろん、なかには、聖書について正しいことを教えている教会もあるかもしれませんが、しかし、それをどのようにして見極めたら良いのでしょうか?
●聖書に沿った正しいことを教えている教会なのか?
●あるいは、聖書とは違う間違っていることを教えている教会なのか?
それを判断するためには、あなた自身が、聖書を深く学び、聖書の内容を正しく理解しないといけないのです。
聖書を正しく理解するためには、精霊(ホーリスピリット)の力が必要ですので、どうぞ、あなたも、神様が精霊(ホーリスピリット)の力を、あなたに与えてくださるように、神様にお祈りして下さい。
聖書は、とても不思議な書物で、私たちの状況に応じて、私たちに必要な御言葉が聖書を通して神様から与えれる時があります。
聖書を読む際には、ただ単に、文字だけを流れるように黙読するのではなく、
ということも必要です。
同じ聖書箇所(Passage)を、数回、読み直してみると、なんとなく、自分の心に引っ掛かる箇所があったり、なぜか、気になる聖書箇所があったり、なぜか、心に留まる聖書箇所があったりします。
そのような聖書箇所は、今日のあなたにとって必要な神様からのメッセージである可能性があります。
そのため、もしもあなたが、聖書を読んでいて、なんとなく気になる聖書箇所があったら、
「この聖書箇所は、一体、私に何を示しているのだろうか?」
と、考えることも大切です。
また、ときには、
「この聖書箇所が言うとおり、自分はこれを改めていこう。」
と、自分自身を正しい方向に誘導できる場合もあることでしょう。
聖書には神様の御言葉がたくさんあります。
そして、神様の御言葉というのは、あなたの今の状況やあなたの今の心境にピッタリのものが与えられます。
神様は、私たちとの一対一の深い関係性の中で、私たちに必要なメッセージを与えてくださいます。
そのため、私たちに必要なことは、神様を熱心に求め、神様の言葉を理解できるように精霊(ホーリスピリット)の力を得ることです。
あなたが、精霊の力を借りて、神様の言葉である聖書を正しく理解し、神様のための素晴らしい働き手になられることを、私は切に願っています。
Article by Toshie Ito ©copyright Good news Minstries with Toshie Ito
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