プラセボの決断(1)
あらすじ
人には相談できない悩みを抱える犬用ジビエジャーキー販売会社の社長、
そして、同じ悩みを抱える若者。
悩みを解消するには、ある品物を店頭購入しなければならなかった。
品物の金額は23万円。
お金はあるが品物を購入するのに今一歩踏み切れない社長は、
あることをきっかけにお店に予約を入れるのだが・・。
お金の専門家現役ファイナンシャルプランナーが、
買い物を通した出会いと決断を描く、お買い物エンターテイメント
G列3番の彼の頭が、どうしても気になる。
H列3番の俺としては、どうしても目が行ってしまう。
座席シートに収まらない彼の後頭部は、身長190センチ超えを感じさせる。これから2時間弱、H列3番に座ったまま俺は身動きが取れない上に、機内は満席で移動もできない。彼に悪意がないのは分かるが、今のタイミングでこの状況は辛い。どうすればいいのだ。
密かな葛藤を繰り広げていると、キャビンアテンダンドの声が聞こえてきた。
「みなさま、おはようございます。本日はANNをご利用頂きまして誠にありがとうございます。この飛行機は伊丹空港行き773便でございます。機長は大田、チーフパーサーは吉岡でございます。御用がありましたら、遠慮なく客室乗務員にお知らせください。まもなく出発いたします。シートベルトを緩みのないようしっかりとお締めください。」
「はぁ・・。」
思わず漏れたため息をごまかすように、シートベルトを引っ張り出してガチャっと締めると、隣に座った島本が声をかけてきた。
「社長、もしかして緊張・・されてますか?」
新千歳空港から数えきれないくらい乗っているANN、飛ぶこと自体に不安は全くない。そうではなく、前方G列3番の彼が問題なのだが、社長という手前そんなことを島本には言えない。
「お前をどのように先方に紹介しようか、ちょっと考えていてな。」
「ありがとうございます。」
島本は応援団が先輩にあいさつをするような、太い声で返事をした。前方G列3番の彼が少し顔を傾け、こちらを気にした様子だった。
島本は関南学院大学在学中に俺の会社でアルバイトを始め、卒業後そのまま入社し今年で3年目を迎える。元々大学では柔道部でオリンピック強化選手の候補にもなっていたのだが、練習中に足の靭帯を損傷し、そのまま柔道人生を終えたという経緯がある。今でも雨の日になると時々「足にちょっと痛みが・・。」と言うことはあるが、柔道をやっていた頃の話を聞くことはほとんどない。触れられたくない痛みがあるのだろう。
痛みに敏感な島本は、他人の痛みも汲み取ってしまうようで、俺の様子が変なことに勘づいていた。
「皆さま、当機はまもなく離陸いたします。お締めのシートベルトを今一度ご確認ください。」
今回も予定時刻通りに出発できそうだ。何事もなければ10時35分に到着して、大迫さんとの待ち合わせにも十分間に合う。
社員は島本1人とアルバイトが2人という小さな会社ではあるが、色々なところへ出向いて地道に営業を重ねているうにち、気づくと設立から5年経過していた。ここまでなんとかやってこれたのは、妻の舞が簿記の資格まで取って手伝ってくれているところも大きいが、これが実は悩みの種でもある。
「101(いちまるいち)を買いたいんだけど・・。」と舞に今まで何度も相談をした。舞は「そんなものいりますか?」とまず、主婦目線で却下し、次に「101は経費では落とせないですよ。」と会社経理の目線で追い打ちをかけてくる。もちろん、内緒で購入することもできるが「経費で落とせるものは落とすから領収証頂戴ね。」という管理下にいると、おこづかいでさえ、使途不明金を作るのはなかなか気が進まない。それに、人に知られたくない買い物であればあるほど、女の勘とやらですぐにばれる。社長って、すごいですねとか、全く知らない人に言われることは多々あるが、全くそんなことはないのだ。
「この後、機内サービスをお持ちします。ホットコーヒー、アップルジュース、温かいコンソメスープ、コーラがございます。」
ごくわずからしいが、国内線にも男性キャビンアテンダントがいる。今回はそのレアケースに遭遇したらしく、アナウンスはテナートーンの男性の声だった。
ジェンダーフリーが叫ばれるもっと前の頃、ドイツに出張で行ったとき、男性キャビンアテンダントがいて驚いたことをふと思い出した。
「島本、そういえば以前、キャシーエアに乗った時にな・・・」
島本に話を振った瞬間、機体がガクンと大きく揺れた。
と同時に、前方G列3番の彼の頭が糸のついていない操り人形のようにぐらんと揺れ、なぜだか慌てて右手を頭頂部にあて、しばらくじっとしていた。
右手をあてがわれた頭頂部はなんだかちょっと居心地悪く、ずれているようにも見えたがきっと気のせいだろう。
名案が浮かぶのは馬上・枕上・厠上と言われるにも関わらず、101を購入するための解決策は全く浮かばないまま、飛行機は定刻通り伊丹空港に到着した。今日は伊丹空港からタクシーで梅田に向かう。車窓から眺める風景が好きで、モノレールと阪急電車を使って梅田に向かうこともあるが、なんだか電車の乗り換えをする気分にならない。
「運転手さん、梅田のレプトンまでお願いします。」
「社長、今日はタクシーですか。」
タクシーの後部座席に座った島本が俺の隣で言う。タクシーですかも何も、すでに乗ってるのだから黙っとけ、と言いたいところをぐっと我慢して「そうだ。」と返す。
タクシーの窓からは、ホテルの看板と、飛行機の発着している様子が見える。しばらく走ると看板も飛行機も小さくなり、タクシーは自然渋滞の中の一台となって、静かに梅田へと向かった。
大迫さんが待ち合わせに指定したのは、阪急梅田駅にほど近い、最近できた外資系ホテルレプトンのカフェコーナーだった。これなら札幌から来る客人にも場所が分かりやすいであろうという大迫さんの優しい配慮の結果なのだろうが、待ち合わせは正直どこでも良かった。ただ、初めて会う大迫さんにすぐに気づけるかどうかの方が気になった。
さかのぼること今から2か月前、会社の問い合わせ窓口に一通のメールが届いた。
「株式会社ドギーラブ ご担当者様
はじめまして。私は大阪にて「みんかわ」という名前のトリミングショップを営む大迫と申します。貴社で取り扱っている犬用ジビエジャーキー「もみじ」を弊店のショップで販売したいと思い連絡させて頂きました。」
メールにあったURLをクリックすると、台の上に乗せられたトリミング中のプードルの写真が3枚と、ペットフードとおやつが並んだ棚の写真1枚の合計4枚を使って、画面を4分割したホームページが現れた。中央部分には、丸いフォント文字で「みんかわ」とお店の名前があり、一番下にはトリミングの料金と電話番号と住所が書いてあった。情報はそれだけで、一番確認がしたかった大迫さんの写真はなかった。
他にページはないのかと、店名やプードルの写真をクリックするも、何の変化もなく、そのままホームページを閉じようとしたとき、問い合わせメールをチェックしていた島本が急に声を上げた。
「みんかわから問い合わせあったんすか!」
島本によるとみんかわというのは、プードル専門のトリミング店とのことで、予約は一年先まで埋まっている関西の人気店だという。仕上がったプードルの写真がSNSで拡散され、評判が評判を呼んだらしい。
「みんかわさんとタッグを組んで、みんかわ専用特別ジビエジャーキーを作って、プードル愛好家を巻き込むっていうのはどうですか!」
島本の分かりやすい発想は嫌いではない。勢いのある人間に乗っかるのも、ビジネスのやり方の一つだ。ただ、ジビエジャーキーを扱う会社はあまたあり、もちろん関西エリアにもある。そんな中、どうして札幌が所在地の会社をわざわざ選んだのかという理由が今一つ見えなかった。
待ち合わせに指定されたレプトンは、関西エリアに昨年初進出した三つ星ホテルで、母体がイギリス大手のホテルチェーンとのことだった。阪急梅田駅直結という好立地を、競合他社をはねのけて勝ち取ったのも話題になっていた。カフェコーナーはイギリスのパブがモチーフとなっていて、ちょっと薄暗く、調度品もイギリスに来たかと錯覚するような重厚感を漂わせていた。完成度の高さに関心しながら座ろうと手をかけた椅子には重みがあり、あとで知ったことだが、調度品や内装は全て本国イギリスから取り寄せた本物だった。
待ち合わせ時間まであと20分あるので、コーヒーを注文した。肘掛けのある椅子は座りがよくていい。
「僕は紅茶をお願いします。」
「島本、お前紅茶にするのか。珍しいな。」
「社長、ここで紅茶を注文すると、ポットで出てくるみたいで沢山飲めるんですよ。時間が15分ほどかかりますが。」
と、メニューにあるポットの写真を指差した。そんなことをしたら、資料が広げにくいだろ・・と言いかけたが、レプトンで紅茶も悪くないかと思い口を閉じた。
紅茶より先に届いたコーヒーを一口飲み、周りを少し見回すと、俺と島本のような、恐らく商談で利用しているであろう二人組、その隣には、母と娘のような二人組が、注文したアフタヌーンティーセットの食器の高さに驚いているところだった。カフェコーナーからはホテルのフロントが見え、大きなスーツケースを持った、GパンにTシャツ姿の金髪男性が、フロントにいる従業員と何かを話しているようだった。薄暗いカフェコーナーから眺めているせいか、金髪がふさふさと輝いて見えた。
待ち合わせ時刻13時きっちりに、大迫さんは現れた。白地に赤い文字で株式会社ドギーラブと書いた紙袋を持っています、と事前にメールしておいたのが良かったのか、掛けてきた声に迷いはなかった。
「犬飼社長でいらっしゃいますよね。はじめまして。大迫和海(かずみ)です。お待たせして申し訳ありません。」
「いえいえ、私共も今ついたばかりです。大迫さん、はじめまして、株式会社ドギーラブの犬飼一(はじめ)と申します。」
指が乾いていたのか、慌ててしまったのか、名刺ケースからスムーズに名刺が取り出せなかった。
一方、大迫和海さんは、長い指をきちんとそろえながら淀みなく名刺を差し出した。爪はきれいに短く切りそろえられていた。肩甲骨の辺りまである黒髪は一つにまとめられ、薄暗い中でも艶があるのが確認できるくらい綺麗だった。クリーム色のパンツスーツがとてもお似合いで、おまけに顔は小さく、目は真ん中に星が描かれているかのように輝いていた。
名前が和海だったので男性かと勝手に思っていたが、目の前にいるのは女性だった。いつもと様子が違う俺を察してか、島本が名刺を渡しながら切り出した。
「大迫さん、初めまして。株式会社ドギーラブの営業を担当しています島本一平です。よろしくお願いいたします。この度はご連絡いただきましてありがとうございました。」
いつもよりワントーン低めのいい声だった。
「お待たせいたしました。紅茶をお持ちしました。」
気配を消していたウェイターが、紅茶のポットをテーブルの上にコトンと置いた。蝶ネクタイと白いシャツ、グレーのベストに黒パンツ姿で背筋を真っすぐ伸ばしたまま、ウェイターなりに、3人の名刺交換が終わるタイミングを見計らっていたのだろう。
「あら、紅茶ですか。ここの紅茶は本当においしいですよ。本場イギリスにも負けないというキャッチコピーでよく宣伝しています。でも、イギリス人は普通のティーパックで紅茶を飲むので、毎回こんな手間はかけないらしいですよ。私も紅茶にしようかしら・・。」
「この紅茶、よかったら飲まれませんか。社長のコーヒーの香りを嗅いでいるうちに、なんだかコーヒーが飲みたくなってきて。」
「あら、いいですか?」
「ウェイターさん、ブレンドコーヒーを一つお願いします。」
「ブレンドコーヒーお一つですね。かしこまりました。」
背筋を伸ばしたままのウェイターは、きっちり30度のお辞儀をして、カフェコーナーの奥へと戻っていった。
島本の気の利いた対応が良かったのか、俺の名前が犬飼一だったのが良かったのか、その後の話はとても滑らかに進んだ。いぬかいはじめの名前については、子供の頃は「おい犬飼、犬、飼い始めたんだって?お前んち、犬だらけだろ。」とからかわれることは日常茶飯事で、家の前に段ボールに入れられた子犬が置かれたこともあった。そんな積み重ねで正直、自分の名前はあまり好きではなかったが、今ではどの取引先でも一番初めに話す鉄板エピソードになり、この名前を付けてくれてありがとうと、会社を立ち上げてからは思うようになった。
コーヒーを飲みながら分かったことは、大迫さんは3年前に国際トリミングコンクールで2位を取った経験もある、高い技術を持つトリマーさんであること、そして、自分のサロンを開業したのは10年前で、日々慌ただしく過ごしていたところ、ある時からプードルのトリミングが続き、気になったので数え直してみると、前の年にトリミングした犬種は7割がプードルだったことが分かった。そんなにプードルに求められているのであれば、今後はプードル専門店の路線で営業しようと腹をくくり、SNSでトリミング後のプードルを投稿してみたところ、プードル愛好家の琴線に触れて、バズって現在に至る、ということなのだそう。
「そうなんですね。ところで大迫さん、関西にもジビエジャーキーを扱う会社は沢山ありますが、どうして札幌にあるうちの会社の商品を・・?」
島本が短刀直入に聞いた。今日どうしても確認したかったことだ。
「ドギーラブさんのジビエジャーキー「もみじ」は、北海道旅行に行った常連客さんからもらったんです。それで、うちのポメ丸ちゃんにあげたら、今まで見たことのない位むしゃぶりついて、普段大人しい子なのでちょっとびっくりして。」
と、言いながら茶色いポメラニアンが、大迫さんの長い指にはさんだジビエジャーキーを、確認できないくらいの早さで奪い取り、よだれを飛ばしながらがっついて食べている動画を見せてくれた。
結局、大迫さんは1袋100グラム980円の「もみじ」を、その場で200袋注文してくれた。来月以降は定期的に届けてもらおうと思っているが、数は今月の様子を見て決めたいのでまた連絡するとのことで、その日の話は終わった。
プラセボの決断(2)https://note.com/goodlp/n/n08b4019b5b68
プラセボの決断(3)https://note.com/goodlp/n/nbe62bf99f305
プラセボの決断 (4)https://note.com/goodlp/n/nb645caa7f508
プラセボの決断(最終回)https://note.com/goodlp/n/na8aa53c50c25
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