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プラセボの決断(最終回)

9月2日午後3時。何回通ったか分からないくらい通った101の店の前に来た。店の前はしつこい位通ったことがあっても、実は中に入ったことはない。
お店の棚には大小さまざまな101の箱が並べられ、何も知らない人が見たらサプリメントを扱っている店に見える。地下街の路面店なので、沢山の人が行き交っている。店の前でじっと立っているのもおかしいので、えいやっと心の中で掛け声をかけて、一歩踏み込んだ。

「いらっしゃいませ」
いつも顔は見ていたボブヘアの店員さんだが、声は初めて聞いた。はっきりとした、弾んだ声だった。
「3時から予約をしていた・・・」
「ご予約の犬飼様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」

案内された先はお店の隅で、白くて丸いテーブルと丸みのある背もたれのついた椅子があった。促されるがまま奥の席に座り、店内をぐるりと見まわし、遠くにある棚に目をやると、その視線を遮るかのように、目の前にボブヘアの店員さんが座った。

「犬飼さん、はじめまして。南と申します。」
あいさつと同時に差し出した名刺には、右端に101のキャラクターの黒猫が二本足で立って万歳をしている絵、そして中央に販売員 南萌子と丸いフォント文字で書かれていた。

「こちらはどのようにお知りになりましたか?」
「スマホで広告を見て・・。」
「そうなんですね。そういった方多いんですよ。」
「こちらのお店の前はよく通ることがあるのですが、中に入るのは初めてです。」
「じゃ、今日はほんとうに、思い切ってという感じですね。」
「そうですね。なんか、予約を取るのも腰が重くて・・。」
「犬飼さんだけじゃないですよ。みなさん、そうおっしゃいます。」
南さんの接客はとても滑らかで、慣れた感じだった。
「ところで犬飼さん、39歳でいらっしゃるんですね。お若く見えてびっくりしました。」
と、予約時に入力した個人データを見ながら南さんが言った。ほんとうに接客に慣れている人だなと思いながら「そんなことないですよ」と、こちらも定型文の返しをした。しかし、続いて出てきた南さんの言葉で、俺は固まってしまい、続く言葉が出てこなかった。

「犬飼さん、ご年齢を確認したのは実は、30から40代向けの商品が品切れになっていまして・・。先月からキャンペーンをやっていたのですが、思った以上に反響をいただきまして、本社の方にも在庫がない状態なのです。しかも、原材料が入手困難になっていまして、次の入荷が未定との連絡が先ほど入りまして・・。」
なんと、入荷未定とは。俺は101の申込みすらできないのか。スタートラインにすら立てないのか。失敗作の石像のように、残念な表情のまま、動くことなくじっと固まっている俺を見て、
「わざわざお越しいただいたのに、本当に申し訳ございません。」
と南さんは座ったままの状態で、白く丸いテーブルにおでこをつけて謝った。

南さんが頭を下げた姿勢になったので、遠くに棚があるのが確認でき、その脇の白く丸いテーブル席に若い男が一人、身動きせずじっと座っているのが見えた。後ろ姿がなんだか、初対面には感じなかった。

「南さん、あの若い人は申込み出来たのですか?」
南さんが白く丸いテーブルからおでこをはなして、ゆっくりと顔を上げた。「あ、あの方は20代なので、商品の在庫がまだあるんですよ。今、念のためのパッチテストをやってもらってます。実際に101を頭皮にちょっとだけ塗って、10分ほどおいて状態を確認するんです。101は年代が上がると成分の配分が変わるので、年代をちゃんと確認するために対面販売していますが、しばらくは20代の方のみの対応になるかと思います。犬飼さん本当にすいません・・。」

白く丸いテーブル席にいる若い男が、初対面に感じない理由が分かった。あの背の高さ、後頭部、G列3番のあいつだ。機内で2時間も俺を悩ませたのだから、間違いない。忘れることはない、あの後頭部。ちょっと手を置いていたのがおかしいと思ったが、あいつ、そうだったのか。しかも、申込みをしたのか・・。

「犬飼さん、ちょっとだけお待ちいただけますか。すぐ戻ります。」
と言って南さんは、パッチテスト中の若い男の方へ向かった。頭皮の確認をしているようだった。若い男は座ったままの状態で南さんを見上げ、何やらうれしそうに話をしている。俺は席を立った。
「あ、犬飼さん、ちょっと待ってください。まだ、お話が・・。」
「南さん、すいません、ちょっと急ぎの仕事が入ったもので、また来ますね。」
腹が立ったわけではない。なんとなく、そのまま背の高い後頭部G列3番の彼と、話し続けて欲しくなったのだ。彼の笑顔がちらっと見えた時、そう思った。

2週間後、取引先の銀行へ行く途中、お店にいた南さんに声をかけた。
「この間は中座してすいません。」
あのまま二度と会わないなんて、ちょっと変な客になってしまうので、どこかのタイミングで謝っておこうとずっと思っていた。レジの前で下を向いていた南さんが、顔を上げてこちらに気づき、何か言おうとした瞬間、お店の電話が鳴った。俺は右手を上げ、じゃぁ、と口パクで言いながら店の前を通りすぎた。南さんは電話で話をしながら、こちらを見て会釈した。

その1か月後、札幌には珍しく大雨の日だった。スーツの色が濃くなってしまうくらいに雨を浴び、傘は全く役に立たなかった。地上を歩くのはあきらめて、地下街を使って移動していたので、101のお店の前を通ることにもなったが、なるべく遠巻きにして通過するつもりだった。そんなコソコソした俺を、南さんは見逃してくれなかった。

「あ、犬飼さーん、良かった。今日は雨がひどいから、地下街を使うかな・・と思って、気にして見ていたんですよ。実はちょっとお話があって。少しだけお時間よろしいですか。」
俺に話?商品の入荷は原材料が入るまで無理と聞いているし、その証拠にお店には若い人ばかりだし、俺に話って?全く見当がつかないまま、勧められるがまま、随分前に座ったのと同じ、白くて丸いテーブル席に腰を下ろした。

「実は、これをお渡ししたいなと思って。」
南さんは、内容量30mlと小さく書かれた、ひょうたん型の黒いボトルを差し出した。
「これ、何ですか?」
「これ、101の試供品なんです。サンプル品っていうのかな。40代向けです。この間、棚の整理をしていたら出てきまして。ちょっと古いのですが、まだ使えますのでよろしければ犬飼さんに差し上げます。」
「へ?いいんですか?」
「先日、お気遣い頂いたので何かお渡ししたいなと思っていたんです。試供品ですし、どうぞ。」
ほんとうに、ほんとうに驚いたのだが、有難く頂いた。欲しかった101がちょっと古いとはいえ、手に入るなんて。南さんによると、シャンプー後、ほんの2滴だけ気になるところにのせて、手のひらで優しく頭全体に延ばして使うのだそう。つけすぎは逆効果なので定量を守ってね、とのことだった。

その日から、俺の気分は大きく変化した。もちろん、増毛なので目に見える効果を感じるまで、ある程度の時間が必要なのは分かっているのだが、それでも、2滴頭に延ばしてあげるだけで、なんとなく毛が成長しているような気がするのだ。これから先を想像すると遠足前の小学生のように、なんだか浮足立ってワクワクしてくる。じっとしていられなくなる。

毛は通常、5~6年周期で頭から卒業するというではないか。小学校入学から卒業までの期間は、やはり、みんな同じ学び舎で一緒に過ごしてほしい。そう、我が頭皮という学び舎で。そして、在校生は新入生を優しく迎えて欲しい。一人一人じっと観察してみると、真っすぐなの、ちょっと縮れているの、個性が色々ある。時々白いのもいたりするが、それはご愛嬌だ。いや、まてよ、よーく見てみると、昨日とほとんど変化がないか?むしろちょっと減ってる?まぁ、とりあえず、このまま続けてみよう。

肘掛けの付いた事務椅子に座りながら、スマホにインストールした鏡で頭を見ていると、島本が外回りから帰ってきた。
「お疲れ様です。あれ?社長、何かいいことでもあったんすか?スマホ見てにやにやして。」
「え?あ、特に何も変わりないが。そうだ、こないだプレゼンしたジャーキーの件、工場長にどの位増産できるか確認しておけよ。それから、来週大迫さんと会うまでに、もう少しパッケージのデザインとか詰めた方がいいな。」
「そうっすね。俺もそう思ってました。」
「ほんとかよ。まぁ、頼むな。」

翌週、大迫さんとレプトンのカフェコーナーで打ち合せをした。
「犬飼さん、お久しぶりです。なんか、こんな話になるなんて、思ってなかったのですが、嬉しいです。みんかわ専用ジビエジャーキーだけでも嬉しいのに、売り上げの一部が寄付金だなんて。」
「大迫さん、これは島本のアイディアなんですよ。」
隣にいた島本が胸筋のあたりを少しだけ大きく膨らませて、姿勢を直したような気がした。
「そうなんですね。島本さん、ありがとうございます。」
島本は恐らく膨らんだであろう胸筋をそのままにして
「こちらこそ、いつもありがとうございます。」
と丁寧に返事をした。

その後は、パッケージのサンプルを選んでもらったり、工場長の話をしたりと、久々の打ち合わせは盛り上がった。一通りの調整が済み、3人とも席を立ちあがって解散しようとしたそのとき、大迫さんが言ったことを俺は忘れない。
「そういえば、犬飼さん、なんか雰囲気変わりましたね。シャツの色のせいかしら?前より明るい感じがします。」
「え?そうですか。何も変えていないのですが、そういっていただけると、嬉しいです。」
表情は変えなかったはずだが、心の中では小さな俺が手を付けられないくらいに、びょんびょんと飛び跳ねて喜んでいた。

札幌に戻り、銀行へ行ったり、工場長と話をしたりと、みんかわ専用ジビエジャーキーを中心として動きながらも、地下街の101のお店へはあいさつ程度で、顔を出すことは続けていた。特に大きな意味はなく、店の前を通ったから声をかけた、その程度のものだ。

サンプルをもらってから3か月ほど経った頃、いつものように「こんにちは。あ、壁に鏡つけたんですね。いいですね。」とあいさつをしてお店の前を通り過ぎようとすると、いつもは「こんにちは」とだけ返事をする南さんが、さらにもう一言付け加えてくれた。
「犬飼さん、表情が前より明るくなってきましたね。」
よく会う人にそんなことを言われると、びっくりするものだが、その分、うれしさも大きくなる。
「え?そうですか。なんだろ、こないだも他の人に言われたんですよ。ありがとうございます。」

そして、ついには舞まで言い出した。
「あなた、最近妙に明るくなったけど、何かあった?先に言っとくけど、女性と二人っきりで飲みに行ったら、そこで浮気だからね。私の中では。」

女の勘は鋭いが、残念ながら今回ははずれだ。俺は明るくなったのだ。無敵だ。実際のところ、毛量にあまり変化はないのだが、鏡で在校生チェックをする回数が減っているのは事実だった。そしてふと気づくと、他人の毛髪具合をいちいち気にして比べることもなくなっていた。

しかし、しばらく使い切れないくらい沢山の量が入ったサンプルを、ほんとうに無料で使い続けていいのだろうか?これは実は、後から多額の請求が来る仕組みになっているとか?そんな、まさか。今度、南さんに聞いてみよう。

南さんに声をかけてもらった翌週の木曜日、コーヒーショップでコーヒーを二つ買ってからお店へと向かった。
「南さん、こんにちは。これ、ついでに買ったから飲んでください。」
101は開店したばかりで、お客はまだ誰も無く、南さんは白くて丸いテーブルを拭いているところだった。
「いいんですか。ありがとうございます。おごってもらっちゃってすいません。」
俺はコーヒーを南さんに渡しながら話を続けた。
「それはそうと、ちょっと聞きたいことがあって。」
「え?何ですか?」
拭かれたテーブル席にそのまま二人で座った。
「あの・・101のことなのですが・・サンプルとはいえ、なかなか使い切れないような量を無料でこのまま使っていいのか、ちょっと気になってきたもので・・。」
南さんは、ついにこの日が来たかという眼差しで、俺の顔をじっと見て少し間を置いてから口を開いた。

「犬飼さん、違っていたら申し訳ないのですが、9月2日の予約をされた直後からずっと、うちのサイトを何回も見てくださっていますよね。」
「あ、まぁ。見る回数は増えました。」
「30代後半から40代の方の閲覧回数がご予約を頂いた後から急に伸びて、こんなにうちのサイトを熱心に見てくださっている方が来られるのなら、絶対お力になろうと思いながら、9月2日を迎えたんです。そしたらその日の午後に商品入荷未定の連絡が入って。販売員として今までで一番、悔しかった。」
「それは仕方ないからいいんですよ。南さん。」
南さんはこちらをじっと見たまま、話を続けた。
「そこから毎日気になっていたら、丁度、犬飼さんが声をかけてくださって。電話が鳴ってしまったのでお辞儀しかできなかったですが、あの瞬間、とにかく何かお渡ししたいって思ってしまったんです。」
「思ってしまった?」
「犬飼さん、私、勝手なことをしました。お渡ししたものは、うちの関連会社で作っている男性向けのリンスのサンプルです。各店舗に参考品として送られてきました。犬飼さんの喜んだ顔が見てみたいと思って、101のサンプルと言ってお渡ししてしまいました。効果がないと言われても、古いので・・って言い訳しようと、自分を守ることまで考えていました。嘘をついてしまって本当にごめんなさい。」
南さんは、初めて会ったときのように、白くて丸いテーブルにおでこをつけて謝った。
「そ、そうだったんですか・・。」

不思議なことに騙された、という感情が湧かなかった。おどろきはしたけれど、腹もたたなかった。呼吸二回分ほど沈黙した時間が流れたあと、壁に取り付けられた新しい鏡に誰かが映っているのが見えた。視線だけをそちらに移すと、スーツを身に付けたビジネスマンが映っていた。俺だ。

その瞬間、LINEでえいやっと予約を入れて、9月2日に初めてここに座ったときのことが蘇った。あの時の悩みが、南さんの「渡したいと思ってしまった」という行動のおかげで、今では遠く、小さく、見えなくなっていることに気づいた。

「南さん、プラセボって聞いたことありますか?」
俺の唐突な質問に、謝ったままの南さんは思わず頭を上げた。
「プラセボって、有効成分の入っていない偽薬のことですよね。」
「そうです。新薬を開発するときに、本物のお薬とプラセボを別々の患者さんに飲んでもらって、新薬の効果がちゃんとあるか調べるんです。プラセボなので効果は出ないはずなのですが、効果を感じる患者さんも中にはいるらしくて、これをプラセボ効果って言います。」
「あ、なんか研修のときに聞いたような気がします。」
南さんの口元が少し緩んだように見えた。
「じゃぁ、研修のときに、プラセボの意味は聞きましたか?」
「えっと・・どうだったかな。忘れちゃいました。」
「プラセボの意味はラテン語で『喜ばせる』です。」
「喜ばせる・・。」
「南さん、毛は生えなかったけど、十分な効果がありましたよ。」

人として生きる以上、お金を払って必要な物を色々と買うわけだが、何を買うのかは決断の連続だ。毎朝食べるパンに始まり、コーヒーメーカー、洗濯機、スマホ、スーツ、車、家、ブレンドコーヒー、紅茶、ラーメン、餃子、ビールに、鹿肉ステーキ、ジビエジャーキー。生きている以上、小さな物から大きな物まで、まだまだ決断の日々は続く。
だからこそ、沢山の出会いの中から選択した一つを、大切にしたい。
物であれ、人であれ、人生であれ、これから先ずっと。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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