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人を大切にするということは、命を大切にするということ

私たち夫婦には娘がいた。

今は天国らしきところにいる。

「らしき」と言ったのは、私には信仰がないし死後の世界も信じていないからだ。

娘はいた。そしていなくなった。悲しみが残った。その現実があるだけである。


私は歯に衣着せぬ物言いをすることがある。時にはそれで誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれない。

でも、だからといって偽りの自分を演じ、上辺だけの言葉で取り繕い、起こるべくして起こるトラブルを必死に避けるような生き方はしたくない。

人はいずれ死ぬ。

例外はないし、そのタイミングや原因は選べない。

予期できる死もあれば、予期できない死もある。

予期できない死には大きな悲しみや喪失感がつきまとい、それがいつまでも続く。

だから大切な相手であればあるほど、できるだけ自分の本当の言葉を、自分の本当の気持ちを、それと同等の敬意と真心とともに伝えたい。

明日いなくなってしまうかもしれない相手に、演じた自分を披露する意味を見出せなくなってしまった。

自分が人にどう見られ、どう評価され、どう思われるかなんてどうでもよくなってしまった。

死の前ではあまりにちっぽけでどうでもいい問題だ。

人間関係の政治をゲームのように楽しむのは嫌いじゃない。

人の心を読み解きながら、反応を予測しながら、これからの関係に期待を寄せながら行うコミュニケーションは楽しい。

それに人間の政治的な交流には、マナーや作法のような相手への慈しみや心地良さがある。

ところが、それらも所詮命の前ではただの虚構。

現実は無常であり非情である。

だから人は人生のステージのどこかで、自分の心や思いを表現する術を得るのだろう。

人はいずれ死ぬ。

亡くなった者に対し、自分の言葉足らずを、実行しなかったことを、伝えたい思いを口にしなかったことを悔やんでも、もうその言葉は届かない。

なんてばかばかしいんだろう。

何かを恐れて言うべき言葉を口にしないなんて。

人はいずれ死ぬのだ。

だから私は自分の本当の気持ちを、本当の思いを相手に伝えたい。

もしそれで嫌われてしまったなら、それもまた運命であり現実である。受け止めようではないか。

人に嫌われる準備も、人に非難される準備も私にはない。

でも、死という残酷な現実を受け入れる準備がある。

嫌ってくれていいし非難してくれてもいい。死を思えばなんてことはない。

私にだって嫌いな奴はいるし合わない奴もいる。

どんなに嫌いな相手でも憎む気になれないのは、死が悲しいからだ。

誰であろうとできるだけ死んでほしくないからだ。

だから誰に対しても「生きていて偉いね」と思う。

見ず知らずの他人が命を落としたところで、私はその事実の大半を知らないし、いちいち深く悲しみもしないだろう。

でも、今日を生きている見ず知らずの他人に対して、「あなたの死を悲しむ人のために今日を生きてくれてありがとう」と思う。

私にとって他者に敬意を払うとはこういうことだ。

命に感謝するということなのだ。

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