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「感謝されない」とどう向き合うか

私の感覚ですと、人間関係は感謝によって成り立っています。

社会そのものの仕組みも、紐解いていくと最終的には「ありがとう」の重なり合いでいろいろなことが成り立っているのがわかります。

ほかにも敬意や羨望や配慮や権利、義務、愛など人間関係を構築する要素はいろいろありますが、その中でも感謝はとくに重要な要素だと個人的に考えています。

さて、この「感謝」を発達弟とはシェアできませんでした。私がどんなに善意で行動しても感謝されないのです。この特性は今も私にとって容易に許容できるものではありません。

人に感謝しない人間と、我々はどう向き合うべきなのか。考察します。

※この記事は4,276文字です。


感謝されたいという気持ちを捨てる

そもそも「感謝してもらいたい」という気持ちを捨てるというのが、最初に思い浮かぶ一つの解決方法です。実際に私がとった方法もこれですが、これはあくまで対症療法的な一時しのぎで、私の中の「感謝されたい」という気持ちが消失するわけではありません。

具体的にいいますと、私は弟ときれいに離れるために感謝のリターンを求めず支援しました。つまり「離れる」というリターンを目的とした支援です。詳しくは「カサンドラは終わらない」をご覧ください。

たとえば福祉や医療などのサービス提供者として、仕事として支援するならいいでしょう。この場合はお金を対価としてあるいは目的として支援を行えばいいわけです。

世の中にはおじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんをご家庭で介護しているケースがたくさんあります。そういうご家庭の多くも、介護してもらう側の感謝があって初めて成り立ちます。介護する側はその感謝をリターンとして支援するわけです。

この感謝がなくなり、あまつさえ「やってもらって当たり前だ」という横暴さまで加わると、虐待事件や暴行事件、ひいては殺人事件などへとつながってしまいます。感謝というリターンがなく介護や支援といった負担を理不尽な形で一方的に強要されると、人はそこまで狂ってしまうということです。

感謝を含めあらゆるリターンを求めず献身的に支援できる対象というのは、ごく限られているでしょう。たとえば昔さんざん世話になった人が認知症などで要介護となれば、恩を返す形でたとえ横暴な態度をとられたとしても支援できるかもしれません。これはすでにリターンをもらっているケースです。先払いしてもらったリターンを返す形での支援。これが恩返しの原理です。

あるいは典型的には親子関係ですね。つまり育児です。

育児は負担の連続ですが、それを許容できるのは愛する可愛い我が子だからこそ。それに子どもには未来があり希望があります。無償の支援を実現できる稀有な例かと思います。

前者のようにリターンを先払いしてもらっている場合と、育児のように無償の愛が効力を発揮する場合。これ以外でリターンを求めない一方的な支援ができるケースは、果たしてあるのでしょうか?

少なくとも私には難しいです。人間的に未熟なのかもしれません。自己犠牲が美徳と錯覚でもしない限りほとんど不可能に近いように思います。

ナルシシズムと感謝の念

世の中には無償の愛に徹しているように見えるすばらしい人たちがいます。しかし彼らは本当にリターンを求めていないのでしょうか?

たとえばSNSでお金を配ってフォロワー数を爆発的に伸ばしている経営者などは、無償でお金を配っているように見えますが実は知名度や認知度、フォロワー数といったリターンがあります。

チャリティーに積極的なハリウッドセレブにも、イメージアップというリターンがあります。

感謝を求めない行為の裏側にナルシシズムが隠れているケースは、とりわけ厄介に感じます。ナルシシズムはほとんど自己満足を原動力としていますから、本当にリターンを求めていないように見えるからです。

しかしナルシシズムにリターンを求めて善行に努める人間は、微笑みのマスクをかぶった狼と同等な危険因子だと私は考えています。なぜなら、自己愛の強い人間は自己愛のために人を助けますが、自己愛のために人を傷つけることもできるからです。

この点、発達障害よりも厄介で危険な特性だと私は考えています。

発達障害者は感謝しているのかいないのか

私はかなりの労力をかけて発達弟を支援しましたし、そのために支払った代償も大きかったです。その分実際目に見える行動を起こしていましたし、弟にもそれが支援であることをはっきりと告げ、協力を要請しました。

発達弟が私に感謝しているのかいないのか、正確にはわかりません。

感謝の言葉はありませんでしたが、もしかすると心の中で感謝しているという可能性はあります。ただ私の感覚からすると、当時やその後の振る舞いからしてもとても感謝されているようには思えません。あくまで私の主観での話です。

発達障害者は人に感謝するのかしないのか。あるいはできるのかできないのか。

結論からいいますと、できるはずです。科学的な根拠はありませんが、少なくとも私はこれまでの人生で発達障害者と思しき人や実際に診断を受けている障害者に感謝されたことがありますし、感謝の言葉を伝えられたこともあります。ですからもし感謝できない発達障害者がいるとすれば、それは障害特性によるものではなく個人の資質や精神的未熟さによるものなのではないかと思います。

私の弟にかんしても、彼は社会経験が多くないことに加え恋愛経験も成功体験も人並みとはいえないほど少ないため、精神的に未熟です。要するに幼稚なのです。「人に感謝できない」あるいは「感謝を表明できない」という未熟さは、彼の人格によるものなのでしょう。

そのため私は、発達障害者の支援はやぶさかでないのですが、少なくとも弟の支援はもう二度としたくありません。というかしません。兄弟として普通の距離感で接するだけで、せめて感謝というリターンすら見込めない彼のためにほんの少しでも責任を負うのは、たとえカサンドラが完治してもお断りです。

発達障害者はどうやって感謝するべきか

とはいえ、発達障害者がその他大勢の人間よりも「感謝」という概念に鈍感だったり、言葉や態度にしにくかったりするのは事実かと思います。

私の推測ですが、そこには発達障害特有のプライドや深すぎる思考などがあるように思います。

たとえば「感謝するということは相手よりも下出に出ること。つまり自分の負け。だからしたくない」といういわゆる人間関係を敵か味方で考える極端な白黒思考に基づくものであったり、あるいは「ここで感謝の言葉を口にするのはむしろ不自然なのではないか?適切なのだろうか?そもそも感謝すべき事象だったのか?」と考えすぎる特性(特性というよりは、特性に起因する習慣)であったり、人によって思考の因果はそれぞれかと思いますが、どういう経緯であれ「感謝を表明しにくい体質」という傾向はあるように思うのです。

そこで発達障害者にぜひ知ってもらいたいのが、「定型には人に感謝されて嫌な気持ちになる人がほとんどいない」ということ。

つまり感謝の気持ちを積極的に表明するのは定型とうまくコミュニケーションをとるための一つの手段になり得るということでもあります。ですから感謝の言葉を積極的に口にしてください。

ポイントは「すいません」「申し訳ありません」と謙遜して感謝を表明するのでなく、「ありがとう」「感謝します」と前向きな姿勢で感謝の気持ちを伝えることです。人がそんなあなたの気持ちを受け止めてくれたとき、きっとあなたも気分がよくなるでしょう。小さなことですが、この小さな成功体験を積み重ねて習慣にすることで、定型を前にしても過度に悩むことなくポジティブな言葉を口にできるようになるはず。定型だろうと発達だろうと、習慣はとても大切です。

しかし「そもそも人に感謝するという気持ちがない」という場合は、正直お手上げです。

一つだけ確かなのは、人に感謝しない人は人から感謝もされないということです。人の悪口ばかり言っている人が周りから嫌われるのと同じ原理です。

感謝の心が麻痺しているとすれば、それはやや病的ですから、障害や病気が原因の可能性があります。改善が難しいのであれば、少なくとも方法論として「人に感謝を表明する言葉や態度」のパターンを学習し、それを実践していくしかないのかなと思います。少なくとも嫌われ者でい続けるよりは豊かな人生を歩めるでしょう。無理のない程度にやってみてください。

感謝されないときはこうしよう

ズバリ言いますが、「感謝しない人間とは離れよう!」でいいです。

発達障害関連においても私は「離れたらいい」と、いつも人と離れろ離れろ言っていますが、要するにそれぞれ適切な距離を保つということでもあります。

私が口を酸っぱくしてこれを繰り返すのは、人間関係のコントロールがヘタな人があまりに多いから。Noと言えない国民性もあるのでしょうし、自己犠牲的な優しさが美徳とされる社会風潮もあるのかもしれません。とにかく人間関係のコントロールが得意でない人が多い印象です。

私も人とのコミュニケーションが特別上手なわけではありません。ただ一つだけ自信を持っていえるのは、公私ともに私の人間関係は快適そのものだということです。人間関係の不満がほとんどありません。それは付き合うべき相手とそうでない相手をしっかり見極めているからです。

弟にかんしてのみ、身内だからと油断してしまいました。そしてご覧の有様です。いい勉強になりました。たとえ身内であろうと例外があってはならないということですね。

いずれにしても、私は付き合いたくない人間とは遠慮なく離れますし、場合によってははっきりと「もう関わらないでください」と言います。Noを口にするのをためらいません。そしてそれは同時に、他人へのYesを口にするのをためらわないということでもあります。ですから合わない人間は離れていき、合う人とは末永くいい関係を築けるのです。

何でもかんでも自分一人で背負い込む必要はありません。

人生、背負っているうちはとても大きな荷物なのに、他人から見るとちっぽけな荷物でしかないものがたくさんあります。そういう荷物は、実際に肩からおろしてみないと「あれ、こんなに小さな荷物だったのか」となかなか気づけません。

ですから一度、荷物を下ろしてみましょう。

もしそれがあなたにどうしても必要な荷物であったなら、もう一度背負い直せばいいだけの話です。ただ荷造りはし直しましょうね。


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