見出し画像

カサンドラは自分自身の問題か?

私は弟の発達障害に起因してカサンドラになりました。

当時の状況は非常に切迫しており、弟の特性を看過できませんでした。なぜなら彼とは仕事の上での関係だったため、感情で処理するには現実的な問題が大きすぎた。現状に甘んじると確実に経済的に死ぬ運命だったからです。つまり無視できなかった。何となくやり過ごすこともできない。否が応でも何かしら手を打たなければならない切迫した状況で、カサンドラの死に体のまま解決策を模索しました。

事業を建て直すには、彼をスパッと切って事業再建に尽力するという道しかありませんでしたが、最終的に私は彼の自立支援を支持し、十年かけて育てた事業の方を切りました。どちらにしても経済的に死ぬ選択でしたが、なぜ私がそこで事業を手放したかというと、弟を切って事業を選択したら必ずいつか後悔すると感じていたから。私の良心がそれをよしとしませんでしたし、その選択を妻や息子に胸を張れなかったからです。

将来のビジョンも診断も手帳もないままでお払い箱になったら、彼は今ごろどうしていただろう?おそらく生活的にも精神的にも当時よりずっと悪い状況になっていたはずです。つまり私の無情な選択の先に、弟の幸せな人生像がイメージとしてまるで描けなかったために下した苦渋の決断でした。

誤った決断で私自身の心が完全に死んでしまったら、事業の再建どころではありません。それこそ本当の意味での死活問題です。ですから結果的に私は、事業を捨てる代わりに自分の心を守りました。

これらの経緯についてはぐっばいカサンドラの手記群をご覧ください。

今でこそ、私は彼に対して怒りや憎しみを抱いていませんが、しばらくは「あいつのせいで」「あいつさえいなければ」という負の感情を抱えて煩悶していました。こうしたいびつな後悔(自分では決して解消できない後悔)をずっと抱え続けるのはとてもしんどいので、これらの怒りや憎しみを自分の問題として受け止め、時間をかけて消化しました。

この成果を、たとえば同じ境遇を体験したカサンドラの方やそこを脱した方などから「よくやったね」「偉いね」「辛かったね」と同情的にお声掛けいただくなら「お互い大変な思いをしましたね」できれいに収まるのですが、もし弟から同じ言葉を投げかけられたら「どの口で言う」と不快な気持ちになります。

たとえ「同じ言葉」でもです。

言葉は立場や経験、境遇によって持つ意味が大きく変わります。

加害者の被害者に対する同情的な言葉ほど屈辱的なものはありません。

あまつさえ彼はそれを実際に口にするかもしれないという懸念がありました。そのため私はある程度の区切りがついたところで弟と円満と離れて、連絡も控えました。私からの連絡が彼のつらい体験への想起につながるかもしれないという懸念もありました。職場環境はともかく、発達障害の可能性を告げられ、それと向き合い、私に支援を求めたあの日々は少なくとも彼にとって心地よい思い出ではないはずです。

私は彼の本音(というか心ない言葉)を浴びせられるのが怖かったし、もし実際にそれが行われたら、心中穏やかでいられないかもしれません。

今なら「はい出た」くらいでスルーするでしょうけど、カサンドラ真っただ中で万が一にもデリカシーを欠く言葉を浴びせられたら、私の中の怒りや憎しみはますます何倍にも膨れ上がり、もはや自分自身でも制御できない怪物へと進化を遂げたかも(とはいえTwitterでの発達当事者方々からの同情的な言葉や客観的なご意見にはずいぶんと救われました)。

負の連鎖で善良なパートナーが怪物へと変貌を遂げた姿。これがまさにカサンドラで悩む方々の多くのケースなのだと思います。誰もそんな状況を望んでいなかったはず。だからこそ自責に駆られて感情がいっそう歪む。芯には「あいつのせいで」がありながら、それでも「もしかして私が悪いのか?」というひどく良心的でやるせない自問自答があると思います。

Twitterでは罵詈雑言、汚い言葉でパートナーを罵り、惨めでやり場のない自分の怒り、虚無感、不毛を棘のある言葉に変換して発散するカサンドラ当事者もいます。いびつではなく、ごく自然に誰でもそうなり得る自然の成り行きです。私も妻には弟の愚痴を相当吐いたと思います。本当にやり場がない。

「お客様は神様だ」

この言葉はサービスの心得としてサービスマンが口にするから健全なのであって、客がそれを口にしてはいけない類です。これと似ているかもしれません。実際に被害者を生んでいる障害者が口にしてはいけない類の言葉があります。同時にカサンドラも、発達障害者に対して口にしてはいけない言葉もあるでしょう。これを振り分ける概念が「差別」だと思います。

こういう理由で私は発達当事者への理解を深めたいという思いを持ちつつ、カサンドラとして経験した自分の悔しさや惨めさを軽視していません。

一方、当たり前のことすらできない弟の苦悩や悲痛も目の当たりにしてきました。本人がどれだけ苦しみ悩んできたか、彼の表情や態度が露骨でないにしろ幼少からそこそこ長く同じ家で過ごした身。それなりにわかるつもりです。彼に対して憎しみを抱きそうになったものの、冷静に、客観的に考察するなら、彼のその苦悶を見過ごすわけにもいきません。

前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「カサンドラは自分自身の問題」という考え方についてです。

この「自分自身の問題」という思想はなかなか厄介かつ難解だなと思います。どこからどこまでが自分自身の問題なのか、考えれば考えるほどよくわからなくなり迷宮入りしそうな案件です。

ただ一つ確かなのは、「カサンドラの発端は自分自身の問題」ではない──ということ。

カサンドラは発達障害者の被害者です。

発達障害者とかかわらなければ経験せずに済んだ問題だからです。

ある意味で育児ノイローゼ、DV、介護問題などとも似ています。

発達障害をむやみに批判するわけではありません。ただカサンドラに対しそのパートナーやそれに類する多くの発達障害者は加害的である。この事実は変えようがないと感じます。そのつもりがあろうがなかろうが加害は加害。これが現実です。

この現実をどう処理するかはカサンドラ自身の問題ではなく、発達障害当事者とカサンドラ当事者、両者間の問題です。そしてこの両者間の問題解決がスムーズに進行しない状況にある両者に対して「自分自身の問題なんだよ」という言葉はあまりに粗雑で的外れ。

これに対する私の現実的な解決策が、彼と円満に離れることでした。もちろんそのための道筋、お膳立て、交渉、説得、手続き、煩わしい作業はありましたが、離別という目下考えられる最善の結末が希望としてあればこそ死に体でも行動できたのだと思います。

あるいは別居や離婚などがそれにあたるでしょうか。それ以外にも方法があるかもしれませんが、今のところ私に思いつくのはこのくらいです。

そして、弟に対する怒りや憎しみ、罵詈雑言を浴びせて「責任をとれ!」と捲し立てたくなるあまりに悲愴な自分自身の心の叫び。私の場合、ここが「自分自身の問題」でした。

彼には責任能力がありませんでしたから、そもそも「責任をとれ!」と要求したところで履行されないのは明白です。犯罪的な不正をはたらかれても泣き寝入り。その上感謝どころか謝罪すらろくにない状況ですと、ますます火に油を注ぐようなものです。しかしこの「自分の感情のコントロール」こそ、彼ではなく私自身にしかできないことでもありました。

カサンドラは発達障害者の被害者です。それも道行く赤の他人などではなく、当事者に献身的に尽くした善良なる被害者なのです。私は自分自身の体験を通し、カサンドラは「完全なる犠牲」だと感じました。

この加害性を「カサンドラ自身の問題」として片つけてはいけません。

カサンドラ症候群で苦しむ方は、発達障害者の加害性を身をもって知っているはずです。だからこそ、カサンドラを生む当事者も自身の無意識なあるいは悪意なき加害性を看過してはいけないと思うのです。

「ケンカ両成敗」という言葉がありますけども、これもほどほどのところで仲介者が介在して成り立つ方式。何度も何度も同じ人間に轢き殺されそうになった身として「両成敗」は到底受け入れられません。

もちろん人それぞれ事情もそれぞれでしょうから、今回は特に細かいケースについて言及するつもりはありません。

ただ「カサンドラは自分自身の問題」という歪んだ思い込みや洗脳は、物事の是非までをも歪める危険な側面があると感じます。

「カサンドラは自分自身の問題」

ある局面(感情のコントロールなど)を切り取れば確かにそうです。

しかし本質的にはそうでない。

冷静な分別がなければ、「カサンドラは自分自身の問題」の正しい認知は解決が難しい問題だなと思う今日この頃です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?