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とあるADS当事者とのレッスン対話

以前私は、発達障害とその他いくつかの精神疾患を診断されている友人から、ある技術的な指南を個人的に依頼されました。

友人だからと無償で請け負い、一定期間レッスンを施したのです。

今回は、このときに覚えた違和感について考察します。


レッスンの違和感

レッスン内容の詳細については伏せますが、まずは友人が用意したサンプルを私が確認し、どうすればそれをブラッシュアップしてより品質を高められるか──と考えるところから始めました。

この案件について私はプロフェッショナルな知識を持っていますが、友人は素人に毛が生えた程度のキャリアでしたので、レッスンが短期間限定であることも考慮し難解な理屈は後回しにして、最短で最高のパフォーマンスを実現できる具体的なテクニックを課題としました。

私が違和感を覚えたのはこのやり取りの最中でのことです。

友人は、私の提案をことごとく「でも」「だって」で否定してくるんですよね。

では実際に実演して見せましょう──と私がサンプルを作り直して結果を提示すると「本当だ。よくなっている」と理解する。しかしまた別の箇所で「でも」「だって」と始まるわけです。

とりわけ意味がわからなかったのは、その「でも」「だって」に建設的な意思がまったくなかったこと。

たとえば銀盃に輝きを取り戻すというミッションにおいて「この銀杯は磨けば輝きます」と提案すると、「でも磨くのって大変ですよね」とか「だって時間かかりませんか?」と返される感じです。

これに対し私は「今すぐに輝きを取り戻す現実的な方法はこれしかありません」と説明する。すると「でもそれって大変ですよね」とくるので「時間と労力を犠牲にするか、輝きをあきらるかの二者択一です」の繰り返しになるといった具合です。

正直こんなくだらない次元の話で時間を消費したくありませんでした。

私は彼が何を望んでいるのかよくわからなくなり、「何を望んでいるのか率直に言って。応えられるかもしれないから」と言うと「技術を教えて」とくる。私の「じゃあ続けるよ?」に対して彼のYes。

しかしやはり「でも」「だって」が続く。

終いに私は「何がしたいの?輝かせたいの?輝かせたくないの?結果にコミットする気がないならいちいち付き合ってらんねぇよ」と言い放ちました。

すると友人は「そういうつもりじゃない」と言いました。どうやら私にマウントしたり承認欲求を満たしたりしたいわけではない様子。私は彼が何をしたいのか見当もつかず途方に暮れました。

この後のやり取りも結局は「でも」「だって」の連続で、最終的にレッスンは「教えることは教えた。後は好きに応用して」という形で幕を閉じました。

彼は何がしたかったのか

目的は品質向上。次点で技術向上もできれば万歳といったところで、これが最初に私が掲げた目標でありレッスンでシェアした目的でもありました。

友人の態度は、私の目には「自分の意見も取り入れてほしい」という承認欲求のように映りました。男性同士ですと、案外こうした嫉妬が少なくありません。

私はとくに上から目線というわけではありませんでしたが、教える立場にある以上、それとなく言葉を選びつつも相手からすれば上から目線に感じてしまうところがあったのかもしれませんね。

ですから友人の面子を保つために、相手への譲歩も試みました。

友「だって、磨くのって大変でしょう?」
私「そうですね、確かに大変です」
友「ねぇ」
私「はい」

   終 劇



いやなんなんコレ⁉


「そう、大変なんだよねー、この作業がしんどいんだよなぁ!」
「だよねーなんかもっと楽に磨ける方法とかあればいいのになー」
「いっそ洗濯機にでも入れちまうか!」
「だね、柔軟剤を入れれば金盃になるかも!」
「なんでだよならねぇよバカか」

──とかやりたかった?そんな時間ないっちゅうねん。

ただでさえ無償で時間を割いているのに、双方楽しくレッスンできるなら延長してあなたの時間をもっと使ってくれたらいいじゃないのくらい思われていたのだろうか?

「友達だから──」という理由で?

それで私はこれまでずいぶんと貧乏くじを引いてきたのですよ。

感謝など求めていません。しかし一度それをすると、二度も三度も当たり前のように求めてくる乞食のような人間も中にはいるのです。完全なる搾取思考。

人は優しい人間に群がります。ある人は単純に慕って。またある人にとっては利用しやすいから。だから人を振るいにかける必要があるのです。

そういう経験を踏まえ、私は単純に「No」を突き付ける術を身につけただけで、冷たい人間のつもりはありません。おまけにどうやら覇気も使えるようになったようで、悪い人間が寄ってこなくなりました。

話を戻しまして、結局彼が何をしたかったのかわからないままレッスンを終えましたが、今になって思うと「単に思ったことを口にしていただけ」の可能性が高いんだろうな、と。

当時は気付きませんでしたが、これも定型&発達ゆえのすれ違いなのかもしれません。

その後の友人との関係

結局レッスンを実施したはいいものの、彼が何かを吸収したり学んだりしたようには見えませんでした。「品質を高めたい」という意思があるにもかかわらず「現状の自分のやり方を変えたくない」というこだわりが強すぎて、新しい情報を柔軟にインストールできない印象です。

結果、彼はいつも同じ作業を繰り返し、ほとんどまったくといっていいほど進歩が見られませんでした。

後から「ほら、よくなったでしょ」と新しいサンプルを提示されましたが、私からすれば正直「どこが?」です。「俺にはよくわかんないけど、そう思えるならレッスンの甲斐があったね」とお茶を濁しました。

友人とはその後もとりあえず良好な関係でしたが、そのうち疎遠になりました。住む世界が違い過ぎたのでしょう。

一方、彼は私のレッスンをとてもありがたく受け取ってくれたようで、その後2、3年は彼の地元の名産品を毎年うちに贈ってくれました。彼のこの気配りのお陰で私は結果的に不愉快な思いをせずに済んでいますが、成果のあがらなかった(ように私には見える)短時間レッスンへの謝礼が「毎年決まった時期に謝礼品を贈答する」では価値がアンバランス過ぎて、かえって恐縮するのでした。

これは今から7、8年も前のことだったかなぁ。もう何年前の出来事かも忘れてしまいましたが、これが私が発達障害に関心を持つきっかけだったかもしれません。

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