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【日本一バカで美しい旅】国道1号踏破 #2 箱庭


前回はこちらから。


歩行ロボット

 それからというもの。ひたすらに歩くにつれ。
大阪の中心部・大阪市を抜けると、まあ言い方はひどいけど、あまり特徴のない景色が続く。

なんていうか。普通のまち並み、というか。


京都や枚方まで、もうすぐ?

けど、ふつう、ってなんだろう。何の特徴もない、ってこと? けど、ただそこにある、っていうその事実だけで、十分、特徴がある、とは言えないのかな。


ふつう、っていうのは無機質、っていうのともまたちがうんだろうか?わからないけど、きっと誰にも、どんな場所にも、ふつうってものはあって、ぼくらの目に映っているものは、そのふつう、に色々な、ふつうでない、ものを覆いかぶせたものであるような、そんな気はする。


思うところはありつつも守口市や寝屋川市を順調に通過。

 まあ、そんな感じで普通のまち並みを淡々と歩き続ける。



 淡々と、というのもつらいものだ。しばらく休みなく歩き続けたが、歩けども歩けども、少しも立ち止まったり休んだりする場所が、この普通の街には現われないままだ。ちょうど、普通の人に話しかけようとするとき、どんな話題を持ちかけたらいいかわからなくて、取っ掛かりがむずかしいのと同じだ。

人があつまり街ができる

 こうなれば、もうとことん歩くしかない。
 明日のことを考えたらそうも行かないけど、けどやっぱり立ち止まるわけにも当然行かない。




かれこれ20数キロ歩いたところ。遠くには観覧車が。


雲のコントラストがまたうつくしい。

 遠くを眺めていると何だかそれだけで意識が遠のいて行くような気がする。相当歩き疲れているんだろうか。


 あの観覧車に乗ってちょうど今てっぺんまで登ってきた人。これからてっぺんまで登っていく人。そして、もうてっぺんまで登ってしまって、これから降りていく人。
 いろんな人がいる。けれど、みんなばらばらのところからやってきて、同じひとつのてっぺんをめざして、またそれぞればらばらのところへ帰っていく。

 遊園地ってすごくにぎやかなところだけど、そのにぎやかさは、ばらばらな人生を歩む人びとが、その時だけ偶然、同じ場所をすれちがうことでうまれる。

 それはこのなんでもない普通の街でも同じ。

 そう思うと、ただふらっと通り過ぎていくだけの自分でさえ、この街の一部になれた気が、この街に受け入れてもらえた気がする。けど同時に、自分の踏み出した一歩一歩の足あとが、せっかく存在証明を得たのに、その、踏み出していく、という行為のせいで、どんどんもとの自分からは遠ざかっていって死んでいく、という事実に畏怖してしまう。
 自分で自分の首を絞めることなんだけど、生きていくためにはそれが必要でもあるっていう、自己矛盾の無限の連環に陥って抜け出せない。一度乗ったら二度と降りられない観覧車のごとく。


 だからこそ、その一歩一歩を、せめて自分だけは覚えていようと、地面をちからづよく踏みしめるように歩いた。

うどん

 そのうちにすっかりと日が暮れた。

 ようやくたどり着いた枚方のショッピングモールは、月並みな表現だけど、砂漠の中のオアシスだ。

オアシスは何も水を飲むだけの場所じゃない。一日の疲れをいやし明日に備えるために、旅人たちがこぞってからだを休める場所でもある。

今日はこのくらいかな、と思って、フードコートという名の現代のオアシスに腰を下ろす。このくらい、といってもだいたい30キロぐらいは歩いている。初日にしては上出来だ。


本日の夕食。店員さんが新人で、たぶん自分が初めてのお客さんだった。

 
 そこでようやく思い至る。あれ、今日、自分はどこでからだを休めるんだろう?
 それまで、歩くことだけにあまりに必死になっていて、完全にわすれていた、、、
 けど、時すでに遅し、とはこのこと。ホテルに数件、電話をかけるもののあえなく撃沈する。


 背後に迫る山が吹き下ろす風が空を切る音がする。室内にいるのに、それがしだいに冷たさをおびて、自分めがけて吹きつけてきたような気さえする。目の前の街の光はもう、はるか遠い。それでいて、自分をもっと遠くから見下ろしている星よりも、ずっとずっとよわよわしい。

 ほんとの砂漠よりも砂漠なんじゃないかってイミフなことをかんがえてしまうくらいのその山と街との光景を見れば、とうとう体の芯まで凍っていくような気がした。


 ふと、となりのテーブルを見ると、まだあどけなさを隠し切れないでいるおさない女の子が、母親と父親と、ひとつのテーブルでうどんを食べているようすが目に入る。その絵本みたいな日常のカットが、まぶしい。けれど、そのまぶしさは、自分の目にはまぶしすぎた。思わず目を背けて、まわりを見渡すと、ほかにも遊び疲れたようすの、恋人どうし、友だちどうしが和気あいあいとしていて、各々が、みんなちがってみんないい、光を、まっすぐ自分の瞳をめがけて放つ。

 

 そんな状態だからまわりの人たちをまっすぐ見つめることができないでいて、自分もまちがいなくその光源の中にいるはずなのに、彼ら彼女らがずっと遠くにいる気がして、いや、自分だけがずっと遠くにいる気がして、自分のすわるテーブルがひどく小さく見えて、その時そこにすわる自分はそれよりもさらに小さかった。

 気づけば、注文したうどんが、もうのびのびになっていた。

ボックス

 けれど、そこで野宿するわけにもいかない。しかたなく、ショッピングモールを後にすることにする。その前に、閉店間際の100均で反射板になるタスキを買う。たとえ反射光でも、少しでも光をまとって歩きたかったのかもしれない。


 駅へ行けばどこか泊まれる場所まで移動できるって考えて、とりあえず駅を目指してひたすらに歩く。地図アプリで検索してしらべた、距離にして6キロほどある、まっくらな道をひたすらに歩く。


 ああ、これが、朝日照りつける陽気な散歩道なら、どれほどよかっただろう。
 
 すっかり日は落ちていて、すでにもう30キロ近くも歩いている。予想していた通り、冷たい風は、あまりにも無情だ。

 自分のあまりの無計画さというか、無謀さがむなしくなる。そんな自分をあざ笑うかのように、人けのない道を、まぶしいライトをひっさげた、さだめられた時間通りにうごくバスが、風を乗りこなして自分を追い越し、駅へまっしぐらに駆けていく。


 なにもない道をただ歩いていた。住宅街にさしかかっても、住人が寝静まった後のそれは、テレビドラマのセットのようで、安心感を覚えるようなものではない。あともう少しだけ歩いて、監督がカットのコールをして、この無限にも思える道のりから解放してくれたらどんなに良いか。

 きっとそうだとすがる思いで、もう一歩、二歩、進みながらカチンコで空を切るように、まぶたを閉じる。


 次の瞬間、開いたひとみに飛び込んできた光景は、やはり、期待通りのものではなかった。いや、その実、その光景は期待以上のものだった。

 
 そこには、お行儀よく停留所で立ち往生しているバスがいた。この夜遅い時間に駅へ向かうバスなどそう多くあるはずもない。さっき自分を追い越していったやつにちがいない。そいつはそこで、パラパラパラと、やる気のない節分の豆まきみたいに、数人の乗客を降ろし、誰かに、何かに突き動かされているかのようにまた、そそくさと駅への軌道をいそいでいった。

 
 それに比べて自分はどうだろう。今自分は、誰かに決められた道を歩いているだろうか?答えはその逆だ。今日一日散々歩いたのは、ほかでもない自分のバカだけど、純粋な好奇心のせいだ。そこに、時刻表なんてものはなかった。

 風が吹きすさぶほどの孤独。でもそれは同時に、何にも代えがたい自由を意味する。


 そもそもいま自分は、日本一バカな旅をしているんだった。
 そうだ。
 はじめからこの旅全部がバカなんだから、いまこんなにバカなのもぜんぜん不思議なことじゃない。それどころか、いまはそれが、ふつう、なんだ。


 いつのまにか、風の息吹が美しかった。足の疲れもすっかり忘れて、大股で歩いていく。いままで真っ暗やみだった道に、ぽつりぽつりと街灯があらわれて、ゆく道をじんわりと照らし始めた。


 しばらくして駅にたどりつくと、先に到着していたあのバスは、恐れをなすように、ライトを点滅させながら俊敏なターンをみせて、来た道を帰っていってしまった。

 あかるい改札を通って、自宅と反対方面のホームへと向かう。ここであきらめて、自宅のベットで死んだように眠ることもできるけど、今の自分にその選択肢をとる理由など、もはやない。電車に揺られること数駅、駅前のネカフェに転がり込む。

 うすい壁で四方をかこんだだけのボックス席。寝心地は悪い。
けど、その無機質さが、いまの自分にはぴったりな気がして、それをどこか心地よく感じている自分がいた。

 机にひとり、さびしそうにたたずむ、使い古されたスタンドライトが、自分のことを今にも消えそうな光で不器用に照らしていた。


1日目の成果

・踏破ルート 梅田新道(大阪府)~ニトリモール枚方前(〃)
       ーーーー約 28,500m
・総移動距離 28,500 / 539,300m 

2日目はこちらから。

 


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