生命についてフワフワ考える
私たちは動物なので、生きていくのに「食べる」って当たり前だと思っていましたが、この記事を読んで、マシコヒゲムシ(w/細菌)として生きれば消化器官もいらないことに衝撃をうけました。
マシコヒゲムシ
本来肉食のパンダが笹を消化できないっていうのは知ってたけど(腸内細菌のおかげで消化できるようになった)、この隙あらば感というか、生命のポテンシャルって本当にすごいんだなあと思います。
最近メタバースやデジタルツイン、集団的知性のことをポヤポヤと考えていて
集団脳
「文化がヒトを進化させた」
人間ってなんでしたっけと改めて謎に包まれております。あれ?メタバースの世界には腸内細菌つれていけないよね、とか。とか。(頭良くなりたい)
今日は生命についてフワフワと考えてみたいと思います。
まず物質はどこから生物なのか。
ナショナルジオグラフィックで読んだ記事を思いだしました。
化学反応で効率よく自分の複製を作れるようになった物質の延長線上に生命がいるのは確かだけど、生物はグラデーションなんですねえ。
人間も有性動物だから、1人じゃ生物とは言えないのね。耳が痛い。「人間」って言葉本当によくできてる。
じゃあ人間ってどこから「私」なんだろう。
「私」や「意識」というと、前野隆司先生の受動意識仮説のことを思い出します。
前野先生の慶應義塾大学での講義。聞き応えのある90分です。
人間が他の動物と違うのは、「意味記憶」だけでなく「エピソード記憶」が出来るようになったことで、このエピソード記憶をするために、脳は意識を作り出した。あってます?(←頭良くなりたい)
実は、指を動かそう!という意思決定の前に、脳の指を動かすという指示をだす場所は反応しているのだそう。
意識は無意識のこびとが判断したことを、あたかも自分で決めたように錯覚しているのだとか。
面白いですよねえ。
「脳はなぜ「心」を作ったのか」
最後に、解剖学者の三木茂夫先生の名著。
「内蔵とこころ」
母体の中で、赤ちゃんが四億年の生物の歴史を辿るのに感動します。
つわりは、受胎一ヶ月後の一週間に起こる、古生代末に生物が一億年かけた「上陸」の継承再現のせい。古代魚から爬虫類になるのはそれだけ大変だったのですね。
そしてもう捨てちゃったのですが、この本を買ったきっかけは、帯に「はらわたで考える」みたいな事が書いてあったからだと記憶しています。
脳で意識できるのは感覚や神経、運動などをつかさどる「外壁系」の器官だけで、
喉元過ぎたら熱さ忘れる、というように排出、循環、吸収といった「内蔵系」器官の感覚は大脳皮質で感じることはできません。
脳 = 体壁系
心臓 = 内蔵系
遺伝子には宇宙の運航リズムの暗号が組み込まれており、内蔵は太陽系の運行に共鳴する。
それを三木先生は「内蔵波動」と読んでおられます。
日本人の祖先が心臓を象る漢字で「こころ」を表したのは、心臓の鼓動を内蔵波動の象徴としてとらえたから。
「こころ」は「体に内蔵された食と性の宇宙リズム」に根付いている。
死病労苦など「無明」の原因はつきつめると内蔵不快。
季節に風物を感じるのも内蔵。
「腹の底から」とか「はらわたが煮えくりかえる」とか「喉から手が出るほど」とか
激情をともなう感情は内臓を感じる表現が多い気もします。
「思」は「田=脳ミソを上からみたところ」と「心」で出来ており、「あたま」が「こころ」に耳を傾けている姿。
ホモ・サピエンスは「あたま」を重視しすぎて、「こころ」という内蔵波動が麻痺しているのではないか。
とても考えさせられる一冊です。
メタバースというコンピュータの中に作られた仮想空間でも、社会そのものが「あたま」で作った共同幻想なのだし、人間が集まれば会議とか経済活動とかそういうのはできるのだろうな〜と思います。
でも人間は「あたま」が作り出した意識の他に「こころ」にも目醒めている。
意識受動仮説の無意識のこびとさんって
もしかしたら宇宙のリズムに共振してる「こころ」なのでは?と思ってみたり。
結論: 「私」として無意識の決定を、日々観察しながら、「生物」としては他の細菌の助けもかりつつ地球で楽しく暮らし、人間としては出来るだけ社会にも集団脳にも関わって、利他的に死ねたらいいのかなと思います。
あ〜フワフワ。
今日はここまで!
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