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片づけられない女と引っ越し

突然だが、あなたの部屋はきれいに整頓されているだろうか?毎日とは言わずとも、床は掃除機がかけられていて、トイレやふろ場は他人が使える程度の状態に保たれているであろうか?

私の部屋に関しては、否である。

小さいころから片づけは出来ないタイプで、モノはそこそこの頻度でなくしていた。ADHDなのかと自分を疑ったこともあるが、その他の部分では生活に支障が出るほどADHDよりの行動パターンをしているわけではないので、たぶん局所的にADHD的傾向をもつただの怠惰な人間なのだ。

片づけを出来ない理由として、まず片づけをすることにメリットを感じられない、というのがある。

友達もいないので、部屋に他人をよぶことがない。自分さえここちよければ、特に片づける必要性がないのだ。ものが散らかっていても、必要なものの場所はある程度把握しているし、もし物がなくても心当たりのある場所を少し探せばたいてい見つかる。

スティックのりはここら辺、はさみはここら辺、醤油は多分あそこにある、となんとなく自分がおきそうな場所を把握しているため、もーまんたいである。

物を片付けたからといって、私的に生活が快適になるわけではないし、モノが散乱していて困ることはほとんどない。時々スティックのりは迷子になるし、はさみなど普段使わないものは捜索時間が多くかかりがちだが、毎日使うものは、ほぼ秒で見つかる。問題ない。

ゴキブリさえでなければ、そして異臭さえ放っていなけれな汚部屋でも私は問題ないのである。しかし、引っ越し代金が多くかかってしまうことだけは、頭を抱える。

私は自分のお金で引っ越しをした経験がまだないが、来年の3月末に今の学生アパートを出なければならない。つまり、今あるすべてのものは移動されるか捨てられるかの運命に立たされているのである。考えるだけで頭が痛い。

親からは、今までの入学祝やら回収されていたお年玉などもろもろ合わせて80万程度事前にもらっているので、お金に関しては問題ない、モノは業者に捨ててもらえばいいのだ!と考えていた。しかし、モノを捨てるだけで数万円余分にかかるのは節約家の名が廃るし、第一親からもらった80万はほとんど株につぎ込まれているので、今ある現金は40万程度しか手元にない。海外旅行の計画もあるし、クレカの支払いも待っているので、おそらく卒業時の現金は30万あればいい方だろう。

私はたった30万かそれ以下で工夫して引っ越しをすませなければならない。至急、ミニマリストになるひつようがあるのだ。(最悪JTの株を売って40万程度の現金を手に入れることは可能だが、できれば株は売りたくない。)

なので最近はメルカリで本を売ったり、要らないボロ服を捨てたりしているが、一向に部屋は片付かないのだ。

最初の方、ルールとして一日10個のごみを捨てることと、一日5分掃除機掛けをすることを自分に課した。しかしいつの日かそのルールは忘れ去られ、とうとう部屋は片づかないままである。私は頭がどこかおかしいのかもしれない、と自己反省し、ちょっと泣きたい気分になる。

だから、ここに改めて宣言しよう。一日に最低一回は掃除機をかけること、一日にレジ袋1杯分のごみを出すこと。それができれば翌日に干し芋を1つ買ってもいいこととする。これでどうだろうか。

私が唯一食費で節約しないのが干し芋である。全食品の中で最も愛するうちの1つ、干し芋。1位はチョコレート、2位はシャトレーゼのチョコバッキ―、3位が干し芋であった。しかし、チョコレートは糖質と脂質過多で、かつ添加物も含まれているので食べてはいけない食品リストに入れられており、チョコバッキ―も同様である。なので、必然的に私的食べ物ランキングは最近更新され、1位干し芋、2位サーモンの刺身、3位砂肝・シードル。シードル以外は実に健康的ではないか。

もし掃除がうまくいかなければその日の干し芋はなし。干し芋がなければその日一日ブルーだ。干し芋・アイ・ラヴ。死ねば干し芋が食べられなくなる。このことほど私を恐れさせる事実はほかにない。私の棺には干し芋を入れてください。干し芋と共に焼かれた私の骨はサツマイモの肥料にしてください。干し芋によって構成された私の肉体は、干し芋に還元される。

最近自殺を考えることが多い。特に苦しいこともストレスもないが、社会人になる前にいっちょ死んでみてもいいと感じることがしばしばある。社会のために歯車の1つとなるより、死んでしまって生の苦しみを回避する方が最適解なのではないか、と強く感じる。電車に乗って外の風景を眺めながら、自殺について考える。スペースケーキを食べ、真夏のうだるような暑さの中、赤ワインと白ワインとシードルをちゃんぽんして、干し芋を食べながら急性アルコール中毒と熱中症の複合的症状の中、比較的安らかに死にたい。しかしそのたびに私を踏みとどまらせているのは、「死んだら干し芋が食べられない」という決定的で形而下の事実なのである。

ポストモダンすら時代遅れになり、もはや主観と客観、自由意志、神の存在・不在などなど、全てにおいて留意的で暫定的な答えしか許されない現代社会において、自分の死と干し芋の関連性だけが私の中で絶対的なつながりを持っている。

死なない=干し芋、死ぬ=非干し芋。

苦しみなく死ぬことは私の形而上学的思想から言うと、理想であり目標だ。干し芋を食べ続けることは私の形而下的願望から言うと、また理想であり目標なのである。死ねない。まだ、干し芋に飽きるまでは。

隠れて生きよ、干し芋をたべながら。

果たして干し芋に飽きるなんて日は来るのだろうか。チョコレートはあきらめることができた。チョコバッキ―も。しかし、干し芋の煩悩のせいで私は悟りを開けない。干し芋以外の事柄でいうと、私はほぼ悟りを開いた状態にあるといっても過言ではないと思うのだが。

サーモンを食えない、となってもどうにか諦められる。シードルも砂肝も、すごく抵抗すると思うが、結局諦められるだろう。しかし、干し芋を自分だけは切り離すことができない問題だ。干し芋のための健康、干し芋のための人生、干し芋だけが人生さ。

エピクロスは言うだろう。「死は、われわれにとって何ものでもない」と。ダンブルドアは「死は新たな冒険に過ぎない」といった。

しかし、私にとって干し芋が食べられないことは何ものでもないことにはならない重大な悲劇であり問題であるし、干し芋のない冒険なんて新たなる更なる地獄の幕開けである。

死によって人間は感覚を失う。だから死は恐れることではない、とのエピクロス的死生観には、私はほぼ賛成である。しかし、干し芋の歯ごたえ、干し芋のほのかなる甘み、干し芋の表面にへばりつく白い糖分を見るときの楽しさ、毎日毎日飽きない干し芋生活は、その死が無感覚であるという説明によって簡単に諦められるものではない。干し芋を知らなければ、もっと人生に未練はなかったのに。

だから、干し芋の未練をなくすために、私は毎日干し芋を食べ、干し芋へのひいては自らの生への執着を消し去り、平穏の心をもって死にたいのである。毎日健康干し芋生活によって、干し芋に飽き、干し芋を買ってもワクワクしなくなるまで、干し芋を食らい続ける、これが最近の目標である。いささか干し芋の弾力によって顎が痛く、また干し芋への愛がますます深まりつつあることは目下最大の懸念点ではあるのだが。

ああ、干し芋。あなたはどうして干し芋(炭水化物)なの?

あれ?私は片づけと引っ越しの話をしていたはずだ。なのになぜ干し芋への愛を語っているのか?

以上が片づけられない女の脳内である。片づけと引っ越しの話はいつの間にか干し芋の話へとシフトしており、ついには明日の干し芋のことしかもう頭にない。このまま引っ越しの日まで毎日干し芋を食べ、部屋にはごみが蓄積され続けるのだろう。

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