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MEINICHI

1月10日。

毎月通う美容院に行ってきました。約1年ほど前に美容師さんから『一文字で今のご自分を表現すると何がありますか?』とのお話をいただく。

どうやら他のお客様とそういうお話をしていたようで、興味を持った私は毎月一文字を携えて、美容院に行くのが楽しみの一つになっている。

さらにその一文字と、それを選んだ理由を基に、美容師さんは私の髪をアーティストのように切ってくれるのです。

最後にセットをした髪を後ろ鏡で見せてくれながら、その一文字に対しての表現を髪のセットと交えて応えてくれる最高の美容師さんだ。

話は変わり、私は2010年5月9日から四天王寺さんに毎月お参りに行っています。

美容院で髪を整えてから、お参りに行くのが恒例の行事。

お参りに行く理由は二つありまして、一つは胸にしまいこんでいることですが、もう一つは、私の誕生日は母方の祖母の命日なんです。

11月7日。

毎月この前後2~3日を目処に、四天王寺さんに月命日としてお参りに行きます。

行き始めた理由はまた何かの機会にNOTEに記すと思いますが。

当時、世の中全てに絶望しているときに、様々な教えや出逢いがあったことがきっかけです。

私は幼少期から高校までは、諸事情があり、両親は朝から晩まで働いていて、姉はいたのですが、私よりしっかりしていて、私は一人にすると心配だからという理由で、私だけ祖母の家で過ごす日が多かったのです。

いわゆる「おばあちゃん子」てやつですね。

当時はそんな心配をされてる、なんてこともよくわからず、おばあちゃんが作ってくれたおはぎやぜんざい、マグロのお寿司、私の故郷では「引っ付け寿司」と呼んでいましたが。

今でもシャリに残るおばあちゃんの手の匂いが、懐かしく、二度と味わえない最高のお寿司を味わい、祖母とよく遊んでいました。

約15年ほど前に祖母は他界しましたが、他界するまでの約3年間は脳梗塞が原因で施設に入っていました。

施設に入る約3ヶ月ほど前のお話。

数ヵ月ぶりに実家に帰省した私に、祖母から『畑で野菜作りたいから耕してくれないかな』とお願いされ、大好きな祖母からのお願いなので、すぐに祖母の家に向かう。

私が小さい頃、祖母は結構大きな畑を持っていて、よくさつま芋や野菜を収穫するのを手伝うというか、遊んでいた記憶はうっすらとある。

頼まれた畑はその当時に比べたら本当に小さな区画で、それでも真夏の日射しにはなかなか過酷な作業だったのを覚えている。

カチカチの土を柔らかくして、土をモリモリにして、肥料撒いて、種を撒いて、という作業を、祖母は家から持ってきた椅子に座り、うちわで仰ぎながら『ありがとう』と何度も言っていた。

あの日が祖母が元気な姿だった最後の日だ。

母から『牛乳屋さんが昨日の牛乳が残ってるいうから見に行ったら…』

そこから祖母は一時入院して、施設に入った。

入院しているときはほとんど意識がないように思えた祖母も、施設に入ってからは少しずつ話せるようになり、身体も少しずつ動かせるようになった。

それを聞いてすぐに会いに行った。

私はまた祖母と話せる喜びと、でも、あの祖母の家では会えない寂しさを抱えて、特急に乗って帰省した。

施設に入り、私を見た祖母は、私のことを忘れていた。

泣いた。

それまで感じたことのない、色んな感情が入り交じって、ぐちゃぐちゃに泣いて、帰りの特急でも涙は止まらなかった。

それから約3年間。

最初は行くかどうしようか悩んだけど、やっぱり大好きな祖母には会いたい気持ちが強く、半年に一度は会いに行き、そのうち、まぁ自分を忘れてようが、買っていった饅頭を嬉しそうに食べる祖母は可愛かったので、会えるだけでもいいか、なんて思っていた。

施設で肺炎が流行り、祖母も肺炎を患い、入院することになった。

入院して会いに行っても、やっぱり私を忘れている。

入院して半年ほど経ったある日。

11月3日。

母から祖母が危篤との連絡が入り、4日か5日が山場と聞かされ、急いで帰省した。

足に斑点ができて、他にも良くない症状が出ていると、夜遅くに帰った私のそばで、母と叔母が話している。

翌日の4日会いに行ったら、祖母が私の名前を呼んだ。

また泣いた。

でも今回は嬉しすぎて泣いた。

病院の先生や母たちが驚くほど、斑点も良くない症状も無くなっていた。

3年ぶりに私の名前を何度も呼んでくれる元気な祖母と話して、また退院して、あの祖母の家でごはん食べたり、荒廃してしまったあの畑をもう一度耕して、また祖母の喜ぶ顔が見れるかなー、なんて思いながら故郷を後にした。

11月6日。

祖母の誕生日。

夜遅くに母から電話があり、容態が急変したとの連絡が入る。

故郷までの特急の終電は当時、確か20時頃だった。

電話はそれよりも遅かったので、もやもやしながら翌日の始発で故郷に向かおうと眠れない夜を過ごしていた。

11月7日。

明け方に電話が入る。

祖母が旅立った。

不思議と涙は出なかった。

静かに眠る祖母に『よく頑張ったね』と声をかける。

それでも涙は出てこなかった。

お葬式の場で、親族たちが11月4日に私が帰省して、祖母に会ったときの話をしていた。

『あんたのこと、一番気にかけてたから、心配させたらあかんと思ったんやね。だから斑点とか無くなったんやね。(旅立ったのが)あんたの誕生日ていうのも、よっぽどあんたのこと心配してるんやね。不思議やね』なんて話を聞きながら、もう名前を呼んでくれなくなった祖母を見つめていた。

お通夜と葬式を終え、火葬場で母がボタンを押した瞬間に、『もう会えない』という想いと、すべての感情が溢れて、泣きまくった。

いつも祖母の家で遊んでいた、いとこの姉も、兄も、私の姉も、みんな泣いていた。

あれから15年。

結局耕した畑の野菜を食べることはなかったけど、今では毎月会えるのが嬉しい。

最初は祖母ともう一人に会いに行っていたけど、今では本堂で手を合わし、目をつぶると、父方の祖父母、母方の祖父母、9年前に他界した父、18年間実家で過ごしたネコが横一列に並んで、私に向かって微笑んでいる情景が目蓋の裏に浮かぶ。

幸せな瞬間だ。

そして語りかける。

いつも見守ってくれてありがとう。

とまぁちょっとしんみりした話になってしまいましたが。

祖母の家は海の近くで、30秒ほど歩くとすぐに弁天さんを祀る岩が見えてくる。

小さい頃は干潮になると、参道が出現して、アサリやシタダミだったかな、などの貝を潮干狩りしていた。

よく祖母と家族で採りに行っていたのを、ほんとにタイミングよく、coolなkumanoさんの記事で画像が出ていて、鮮明に思い出した。

素敵な画像を有難うございます!

ありきたりな言葉だけど、心のなかで生きてくれている、と実感することが大切なこと。

その機会が増えれば増えるほど、私の心は豊かになっていく。

今日もここまでお読みいただき有難うございます!

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