見出し画像

2:病院ではレビー小体型認知症は手に負えない

 春川脳外科病院は、地域で有名な病院だった。待合室は、いつもいっぱいで、予約をしても一時間以上待たされた。
 大吉は、病院に行くことに抵抗はしなかった。薬や病院は、彼にとって痛さや苦しみから救ってくれる存在だったからだ。健康診断は、一人で毎年受診していた。体の不調に対しては、とても敏感な割には、気分が乗れば無茶をして体を壊し、2回も入院している。
 映子は、抗生剤に過敏なところがあり、出産直後に抗生剤で下痢をしたが、医師には聞き入れてもらえず、つらい思いをした。病院にはなるべくお世話になりたくないと心底思っている。だから、風邪をひいても頭痛がしても胃腸の調子が悪くても、病院に行かないで治す。肩こりが酷かったとき、知り合いに紹介されたカイロプラクティスでは、これは硬すぎてもう無理ですと言われるほどだったが、アロマオイルのトリートメントで、すんなり良くなり感激した。それから、アロマの勉強を始め、資格もとった。人にトリートメントをしてあげられる様になった。トリートメントというのは、いわゆるマッサージで、国家資格ではないアロマの世界で使われる言葉である。
 更に薬以外の療法の探求は続き、バッチフラワーに出会った。
 日本では、代替療法自体が無視されているので、知らない人のほうが多いと思うが、実は世界では、医療機関でも普通に使われているレメディー(薬)なのだ。
 レメディーと言っても、その実態は「水」である。「植物の波動を転写した水」で、バッチ博士が生前作り上げた38種類のレメディーは、人間のすべての感情に作用して、その人らしいポジティブな状態にする事ができる。
 なんとも不思議なレメディーが存在するものだと、映子は最初半信半疑だったが、世界資格を取るための四年間の勉強で、自分自身が体験して納得したのだった。
 なぜ人は病気になるのか?
 バッチ博士がずっと問いかけていた、この素朴な問いの答えがバッチフラワーレメディーだった。ネガティブな感情が、肉体を蝕み病気になる。その苦しみを、誰でも安全に簡単に癒すことができる仕組みとして、バッチ博士はこの植物のレメディーを残したのだ。
 バッチ博士は、西洋医学、ホメオパシー医学を学んだ医者であったが、医学の勉強をしていない映子は、人の病気を診断することは憚られる。自分や家族は良いとしても、苦しんでいる誰にでも積極的に勧めることなど出来はしないと思っている。どんな病気にかかっているのかは、やはり病院に行き、検査を受ける必要があるのだ。

なぜ人は認知症になるのか?
バッチ博士が生きていたらぜひぜひ聞いてみたい。
病気の元が感情にあるならば、どんな感情が認知症を引き起こすのか?

 大吉の病院での検査は、MRIと、いわゆる卓上の認知症検査だった。
診察室に入ると、初老の丸っこい春川医師がにこやかに待っていた。検査の結果を見せて
「脳の萎縮はあまりないし、検査結果も、MCI(軽度認知障害:認知症ではない)レベルです。幻視があるということは、レビー小体なんでしょうね。まあ、MCIレベルですから認知症とまでは言えないというレベルでして。大丈夫ですよ。まだね。奥さんは、見えないものが見えていても、それに共感して安心させてあげてください」
「共感するって、どうしたらいいんですか」
「まあ、見えない人がいてお茶碗がたくさん出ていたら、茶碗にお茶を入れてあげてですね。そうすると、本人も気づいてきて、だんだん言わなくなります」
「はあ、そんなものですか?」

 幻視に関しては、毎日のように、今日は子どもたちがたくさんいるだの、友人(数年前に死んでいる)が来ているだの、虫がいるだの、蛇がいるだの内容は様々で忙しいのだ。とてもついていけない。見えているのは大吉本人だけ。誰もいないところに、お茶を出せるだろうか?
その日、アリセプト3mgが処方された。薬剤師からは、
「これは、これから一生飲む薬ですから」
「一生ですか?」
「普通は、だんだん5mg、7mgと増えていきます」

しかし、飲んでも幻視に変化はない。無くなるどころか、更に活発になっているようで、人数は増えるばかりだ。1ヶ月後の受診では、アリセプトの増量で5mgになり、抑肝散が追加され、薬の袋は膨れ上がった。医師の言うことには、
「奥さん、女優になりなさい。女優ですよ。見えなくても、お茶を出して、笑顔で応対するんです。そうすれば、ご主人は、安心して気持ちも楽になりますよ。ご主人の気持ちが安定することで状況が良くなりますから」
「それはできません。だって見えないですから」
映子がそう言うと、医師は不機嫌そうな顔になり、診察はそれで終わりだった。
 毎日毎日、見えない者がいると言い続ける大吉と顔を突き合わせて、たった二人で暮らしている映子の気持ちはどうなるのか?この、不快さ、この嫌悪感を、医師は全く理解してはくれなかった。
 実際、努力はしていたのだ。お茶を5人分ついでテーブルに並べたが飲むもののいないお茶は、虚しく冷めていった。大吉は、その状況について何も言わない。都合の悪い現実は、彼にとって幻なのだ。
 幻視の厄介なところは、お茶だけでは済まないところだ。どこに、あらわれるのか見当もつかない。でも突然、夜中に人が訪ねてきたり、壁の中から人が這い出してきたり、犬やネズミや蛇や毒虫が襲ってきたりするのだ。そして、毎日毎夜、幻視が無くなることはなかった。

 介護者の精神は誰がケアしてくれるのだろうか?
 病院に通って、薬を飲ませて、改善しない幻視と妄想に付き合う毎日。病院に行っても、なんの答えも希望もない。映子は、医師にもわかってもらえない孤独感を噛み締めていた。

 答えを求めて、認知症の本も、読み漁った。しかし、レビー小体型認知症は、まだまだ未知の分野だったのだ。1995年レビー小体型認知症として、アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症と共に3大認知症として分類がされたところであって、その症状の多彩さで治療法などはまだ確立されていない。何より厄介なのは、薬剤過敏性があることだ。これには、さんざん悩まされた。悩みなどという軽いものではなく、次第に恐怖になっていったのだ。薬が変わるたびに大吉は、錯乱に近い状態に陥る。
 レビー小体とは、パーキンソン病の原因と言われるタンパク質である。このタンパク質が、脳の部位のどこに付着するかによって、いろいろな症状が出る可能性がある。体を動かす脳の部位に付着すれば、パーキンソンの症状が出るが、パーキンソンだから必ずしも認知症になるということでもない。   そして、レビー小体が脳に付着したからといって、認知症になるとも限らないのだ。これは、解剖でレビー小体が見つかったが、生前認知症ではなかった症例が確認されているからだ。

 医者は、毎回、転んだりしませんか、気をつけてくださいというのだが、大吉にまだこの症状はない。レビー小体型認知症の20%は、パーキンソニズムが出ないとも言われている。なんとも不可思議な認知症だが、それ故に、統合失調症やうつ病と混同され、薬剤過敏なのに精神科の薬を処方された結果、廃人同様になって過ごした患者も多数いたらしい。
 後になって映子は知ったが、別の医師が、MCIレベルであってもレビー小体ならば認知症と認めるべきであると言っている。幻視・妄想がひどくても、認知機能は正常に近い人が多いからだ。大吉は、認知症の検査を覚えて、病院で検査があるというと、予習を欠かさない。そういう知恵はあって、結果、認知症未満と診断されるのだ。
 しかし、空間把握能力は無くなる。図形を書かせるとよく分かる。完全な立方体を描けなくなるからだ。体内時計も崩れていく。体内の感覚と実際の時間が合わなくなり、時計を見ては時間が間違っているという。カレンダーを見ても、日と曜日が間違っていると力説する。
そしていつも言う言葉は、
「誰かの陰謀だ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?