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幻視妄想と暮らした7年間 その後

初めて認知症で病院に行ってから5年、幻視妄想と付き合い始めてから7年ぐらいになる。
大吉が入院したのが2021年7月の末だった。
6ヶ月が過ぎたとき、これからどうするか医師とソーシャルワーカーと会議しなければならない決まりだと言われた。
3~6ヶ月という予定で保護入院したから、予定期間が過ぎたら話し合いを持つという、厚労省で決められている規則らしい。
映子は、地域の介護施設には申込みをしてあったが、空きができたという知らせは、まだ無い。

大吉の入院直後、映子はこれで少しは眠れる夜が来るかと思っていた。
しかし、それは楽観的すぎた。
夜、猫の歩く足音ですら、大吉の居た夜のことが蘇り、吐き気と恐怖を覚える。睡眠は浅く、夜中に何度も目が覚める。睡眠時間は、4時間ぐらいが平均だった。熟睡はできない。
朝は、起きにくく、体が重かった。もちろん体重が、という話もあるが、グルテンフリーを続けていたら、危機的体重から多少の減量に成功していた。

楽しいという感覚が、無い。嬉しいという感覚が、無い。
大吉が居ても居なくても、すでに何もかも終わっている、人生には何もない。そんな無感動の自分が居た。
以前と同じように、料理番組ぐらいしか映像として見られない。長いのも苦手になった。集中が続かない。ニュースは見られない。

2ヶ月ぐらい様子を見たが、どうも鬱なのではと思った。眞子さま以来、複雑性PTSDという症状が認められて居たが、映子にも十分当てはまるだろう。命の危険があるようなショックな出来事がPTSDを誘引するとして認められていた。しかし、眞子さまのように、SNSでの誹謗中傷などでのショックによるPTSD症状が病名としてみとめられたということは、PTSDの概念を広げたと言えるだろう。
介護中必死に自分をつなぎとめるために、介護日誌を書いた。それをもとに、小説仕立てにまとめた。

正気を保つための必死の作業だった。

今、その原稿を読むことができない。読もうとして、考えただけでも吐き気がする。なるべく介護中のことを考えないようにする。日々暮らしていくには、これしか、なかった。

病院から帰って、家に入ると、大吉の椅子や、家具のレイアウトを見るだけで、気持ち悪さがこみ上げてきて、吐きそうになる。
なにもかも、新しくしないと。テーブルの位置を変え、大吉のソファーは見えない奥の部屋に隔離した。ついでに上から布をかけて見えなくする。

やっと、少し息がつける。
それから毎日、家の中を片付けレイアウトを変えると言う日日を送った。

胃腸の調子も良くないので胃腸薬を飲み続ける。熟睡できない、夜中に何度も起きる、夢ばかり見る。集中力がなく、人と話すのが辛い。とにかく、人に合うのがいやだった。何もやる気がせず、嬉しいとも楽しいとも感じない日々が続いた。
この時期、映子を動かしていたのは、個展の予定が入っていたから、人形を作らなければという使命感だった。
もう、昨年末から決まっていた。いつ断ろうか、と思い続けているうちに、大吉の入院が決まり、個展の準備時間が取れたのだった。

11月まで、頑張って個展の準備をする。この目標が、なんとか映子を動かしていた。

それでも、体調がわるいので、大吉が入院している同じ病院で、診察を受けることにした。医師は、強い抑うつ状態といった。睡眠導入剤と鬱の薬を処方された。

睡眠導入剤のおかげで、5時間は眠れるようになった。
鬱の薬は、合わなかったようで、日中突然、頭の中が空白になり、卒倒するかと思う一瞬があった。これは、かなり怖い。そこで、睡眠導入剤だけにして様子を見たが、年が明けて、みょうなめまいを感じるようになり、その薬も飲まなくなった。飲まなくても、5時間は眠れるのがわかった。
医師にその報告をすると、では、また具合が悪かったら来てください、と診察は終わりになった。
またか、と思う。医師は、薬を処方するためにいるのだろうか?特に精神科は、それでいいんだろうか?
理解されないという思いは、だんだん怒りになり、時々爆発しそうになる。

なんとか個展も無事終わり、大吉は入院を続けていられる。
コロナでありがたいと思っているのは、映子だけかもしれない。
面会にいかなくても、誰に後ろゆびさされることもない。

医師がなんと言おうと、PTSDの症状だ。だから、大吉に合うことは、できない。戻ってきて一緒に暮らすことなど、死刑宣告と同じだ。

施設の空きはまだ無い。
もう、なりゆきにまかせるしかないけれど。一生入院することはできないんですよ、と釘をさされてはいる。
どこまで、いつまで、映子と大吉の人生は続いていくのだろうか。先はまったくわからない。



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