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理想(文科省)と現実(生徒)のはざまに

こんにちは。りなおです。
最近、自分の仕事で悩んでいることがあります。

私の疑問

私は高校の国語教諭をやっています。現代文(評論、小説)・古典(古文、漢文)を教えています。その中でも、現代文は教科書の内容に沿って実際に自分事として生徒に考えさせることができること、私の考えを言葉にして伝えられることなどが現代文の醍醐味だなと思っています。しかし、古文に関しては、特に古語・文法やって訳して終わりという授業に意味はあるのかと疑問に思うのです。

私の現状

私は現在、同じ学年を私を含め3人で担当しています。(ちなみに、担当学年の教育課程は旧課程。)他の先生たちのやり方はやはり1文目から文法の確認が中心で訳して進んでいくらしい。んーー、それでいいのだろうか。私が生徒だったら正直「つまんない」なぁ。確かに、文法や古語がまだ定着していない生徒にとっては、復習になってよいのかもしれないし、大学受験を考えるとその方がいいのかもしれない。でも、文法はすでに1年時に済ませているし、わからなければ授業でわざわざ触れなくても文法の副教材を読めばよいのだ。実際に「○○先生は文法の確認して訳して終わりだから、物足りない。文法は分からなければ自分で文法書で調べればいいし、もっと考える授業がいい」という生徒の声を聞いたことがある。

答えは出るけど…

だからといって、文法や古語をやらずに言語活動的なものをやって終わりにする自信もないし、文法やって訳して終わりのつまらない授業はしたくない。とすると、文法も触れつつ訳もしつつ言語活動もとなっていくると、時間にも心にも余裕がなくなるのである。だったらいっそ思い切って言語活動のみの授業に舵を切っていいんじゃないか。

問題が…

そこで、問題なのが「評価」である。「テスト」である。テストがどうしても文法や古語に偏りがちな問題が多いと、言語活動の意味がなくなってくる。文科省の目標は「ものの見かた、考え方を広める」であり、私たちはそれを念頭に授業をする。つまり、文科省の目標だと人間性を深めたり広めたりということだろうか。しかし、実際現場での生徒の目標はこうだ。「テストでいい点をとること」「大学入試に必要なテクニックを身につけること」。国と生徒の古典に対する目標が一致しない中、私たち教員は一体どうしたらよいのだろうか。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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