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観音寺城トレイルの下見(2024年2月2日)

滋賀県レイカディア大学地域文化学科同級生で観音寺城トレイルを計画しました。以前に訪問した観音寺城城下町石寺が非常に興味深かったことから、2024年2月29日に実施予定のトレイルの下見です(上記写真は権現見付)。

トレイルのコース
この地図は「雪野山♡しもはねだ里山天国」からの転載で、原図に記載されていなかった道や曲輪名を付け加えています。

その下見として予定するコースに従い観音寺城を巡り、各曲輪の情報などを調査しましたので、ブログとしてまとめます。計画しているのは上図のように観音正寺の周囲を青い矢印に従い巡るコースで、約3km、2時間のコースです。本番の様子は別途報告の予定です。

六角定頼像

観音正寺裏参道入口近くの繖トンネル前には、14代当主六角定頼の騎馬像が建てられています。定頼は先進的な手法で内政に手腕を発揮し、家臣団を繖山に集住させて本拠である観音寺城を整備し、そのため、大永3年(1523)には日本で初めて家臣に城割(支城の破却)を命じました。これは後世の一国一城令の基になったと言われています。また、経済発展のため日本で初めて楽市令を出して商人を城下の石寺に集めました。
さらに、第12代将軍足利義晴を支え、天文15年(1546)に義晴から管領代に任じられています。

裏参道の観音寺正寺入口石碑

裏参道山上駐車場に車を止めて、観音寺城トレイルの下見開始です。

目加田屋敷跡

川並口道(裏参道)を歩き始めてすぐに「目加田屋敷跡」の表示があり、その下方を見ると大きな目加田邸跡の曲輪がありました。「布施淡路守邸跡」と、現在の観音正寺裏参道をはさんで向かい側に位置する曲輪です。
単郭構造の土塁囲いの曲輪で、六角氏の被官目賀田氏の屋敷跡といわれていますが、城の南方に位置する東山道方面を監視する役目を担った曲輪と考えられます。

布施淡路守邸跡石塁

川並口道(裏参道)から見上げた「布施淡路守邸跡」の石塁(裏込め石がない石積み)です。

布施淡路守邸跡虎口

下写真に示した川並口道(裏参道)沿いにある「おちゃこ地蔵」の右横の入口から登るとすぐに「布施淡路守邸跡」の石塁の端を折り曲げ、防御を考慮した枡形状虎口となっていました。写真は曲輪内部から撮影しました。山頂から東に延びる尾根上の東端に位置する曲輪です。
六角氏の被官布施氏の屋敷跡といわれていますが、位置からみて城の東方を防御・監視する役目を担った曲輪と考えられます。訪問時は笹藪になっており奥まで進めませんでしたが、上に示した地図からは、曲輪は長方形の大きな単郭構造のものです。

おちゃこ地蔵

川並口道沿いに目立つように「おちゃこ地蔵」があります。悲劇のヒロインお茶子が亡くなっていた場所をお茶子谷と呼び、供養のために建てられた地蔵です。

奥之院入口

観音正寺奥之院入口の鳥居です。

磐座石屈内の磨崖仏

上方の磐座の石屈内には7体の磨崖仏が薄肉彫されているとのことですが、写真真ん中下方と左の木の下にぼんやり見える程度で分かりにくく、特に入口の2体は風化が進んでわかりにくいとのことです。奥の5体は手前から菩薩立像、如来坐像2体、菩薩立像、菩薩坐像で平安時代末期頃のものと言われています。以前はこの石屈の入口には熊野権現を祀った社殿があり石屈には入りにくくなっていましたが、今は社殿はなくなっています。

本谷筋(大手道)とその周辺の道筋(詳細図はリンク先をご覧ください。)

観音正寺に入り境内の半ば辺りから寺の石垣を下りて、石垣に沿って西方に進むと上写真の周辺地図が掲示されていました。後藤邸跡、進藤邸跡の上方を本谷筋(大手道)が、木々が伐採され整備されつつあり、これまで立ち入りが困難であった本谷筋付近の進藤邸跡、後藤邸跡の石塁など要所を見渡せるようになっています。後藤氏は佐生城主でもありましたが、16代当主六角義治に殺害され、観音寺騒動が勃発しました。

後藤邸・西側通路から上方を撮影、進藤邸辺り

進藤氏(進藤貞治)は六角定頼に重用され、奉行人奉書の発給や当主書状の取次などを数多く手がけています。六角氏への訴訟の披露を荘園領主から求められることも多く、対外的にもその役割が期待された家臣です。進藤貞治賢盛は後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された家臣です。

三雲邸跡付近の繖山三角点に向かう上り坂

観音正寺の石垣に沿う道に戻り、さらに西方に進むと、道の山(北)の側の曲輪は三雲邸跡です。三雲氏は六角氏の京都での軍事行動において、蒲生氏とともに中心的な役割を果たしました。また、永原氏と同様に幕府や貴族との直接的なつながりもあり、京都でもその存在が知られていた家臣です。上りが繖山三角点、直進と下りが共に本丸に向かう交差点にたどり着きます。ここから繖山三角点に向かって登って行きます。

楢崎邸跡石塁

三角点に近づいてきますと石塁が長く続いた曲輪(楢崎邸跡)に到達し、上り道は曲輪を迂回するように左(西)側に曲がって行きます。樽崎氏は、犬上郡多賀町の楢崎城を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されています。

沢田邸跡

大土塁(北尾根道)に到達し、そこから沢田邸跡を見下ろしています。大土塁は観音寺城の北端の尾根筋を土塁として利用したものです。沢田邸跡の曲輪は城内で最も高い場所に位置する曲輪です。本来ならば尾根上に曲輪を造ってもよい場所ですが、尾根を残して、その南側をわざわざ削り込んで曲輪を造っているのは、天台寺院の跡地を敷地として利用している影響でしょう。

三国丸(三国の間)

尾根筋の最も高い場所には三国巌と呼ばれる巨石と、石塁によって囲われた三国丸と呼ばれる曲輪があります。三国が見える所ということで、三国丸と名付けられたようです。

三国丸石塁 

北側の防御を固めるポイントとして櫓台的な役割を持っていたと考えられています。

三国巌
馬渕邸跡北の大土塁から北側斜面に見える曲輪の石塁を臨む

大土塁(北尾根道)の南側には、西側から東側に向けて、馬渕邸跡(蒲生郡馬渕庄(現・近江八幡市)を領する南近江守護代家)・三井邸跡(目加田氏の分家)・伊庭邸(I)跡・馬場邸跡・伊庭邸(II)跡・大見付といった曲輪群が並びます。
馬渕邸跡の上の大土塁のさらに北側斜面にある曲輪(名称は不明)にも写真のように石塁が見られました。

伊庭邸(I)跡・馬場邸跡間の堀切

伊庭邸(I)跡から馬場邸跡へ向かう時、それらの間は明確に堀切で切られておりました。

佐々木城址碑(大正時代建立)

馬場邸跡を過ぎると佐々木城址の石碑が立っていました。大土塁(北尾根道)を歩いていると曲輪名などの表示等の目印がありませんので、この石碑でようやく自分はどの位置にいるのかを確認することができました。石碑は大正4年11月に建立されたものです。

佐々木城址碑の真下に見える奥之院

佐々木城址碑から奥之院とねずみ岩へと通じる下り道が付けられています。

伊庭邸(II)跡石塁

先に進むと近江守護代であった伊庭氏の伊庭邸(II)跡に到達します。伊庭氏は近江源氏佐々木氏の支流であり、神崎郡伊庭邑(東近江市伊庭町)に居住したことから、伊庭氏を称しました。この石塁は、奥之院(南西)方向に伸びています。

伊庭邸(II)跡北東部石塁(伊庭邸(II)跡内部より撮影)

この後、道(写真右端)は伊庭邸(II)跡の北東部の石塁を越えて、大見付に向かいます。

大見付石塁

さらに進み最終の大見付横を通りました。大見付内部に入り、内部から石塁を撮影しました。通常、見付とは城門のことですが、この大見付は城門というより曲輪です。

おちゃこ地蔵左横登山口

大見付を過ぎると、おちゃこ地蔵横の登山口に出ました。写真の標識に記載された距離から。三角点近くの沢田邸跡とこの地点の距離はほぼ600mです。本番のトレイルは2月29日に実施しました。

なお、本ブログの記載内容は、新谷和之 図説六角氏と観音寺城  戎光祥出版を参考にしました。

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