アレグロとアダージオが紡ぐバレリーナの人生。
表紙は、今ではほとんど見ることのない1950年代ごろのバレリーナの体の線。背表紙にはイギリスでバレエの発展に貢献したアリシア・マルコワからの賛辞もある。そのシンプルでも何かバレエの真髄が詰まっていそうな装丁に魅かれ、古本屋で購入した。作者は、1932年に米アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞した『グランド・ホテル』の原作者のヴィッキイ・バウム。ウィーン出身でその後アメリカに移住した女流作家だ。
主人公は、1954年頃のニューヨークに住む47歳のプリマバレリーナ、カティア・ミレンスカ。カティアはもう現役引退間近なのだが、まだプリマしてのプライドもあり、その引き際が決まらない。バレエ団は新作『蜂の巣』の初演の準備で大忙しなのだが、カティアには配役すらされなかった。ところが新作のリハーサル直前に、主役の女王蜂を演じる若いプリマが病に倒れ、カティアが代役となる。
カティアのバレエ人生は、1920年頃、生まれ故郷のウィーンで始まる。「将来は僕がニジンスキーで、カティアはパバロアになるんだ」と意気込む亡命貴族のロシア人少年グリシャと出会い、二人は切磋琢磨してヨーロッパに名が知れ渡るほどの人気ダンサーに成長するが、舞台の上では最高のパートナーであっても、芸術家気質が強く気まぐれでわがままのグリシャにカティアは翻弄される。私生活でカティアはスペインで国民的英雄の闘牛士と恋に落ち結婚するが、結婚と仕事の両立ができず、女の子を授かるものの離婚。カティアは出産後、生後間もない娘の養育を修道院に託し、アメリカに渡ってバレエのキャリアを続けた。
こうして時系列にカティアの人生を並べるとよくあるバレエを題材にした恋愛小説のようだが、著者は、カティアが所属するマンハッタン・バレエ団が新作を作り上げていく舞台裏を小説の大きな柱にしている。ショービジネスでは最も忙しい新作発表にかかる期間を、第一部:代役に選ばれるカティア、第二部:リハーサル前日、第三章:リハーサルから新作上演、と三部構成にまとめ、その三つの章の間に約35年ほどにも渡るカティアのダンサー人生を幻想的に折り込むという形で物語が展開する。新作発表に挑むバレエ団の奮闘ぶりはまるで音楽でいうアレグロのように目の回るような忙しさで描かれるが、その一方でカティアとグリシャを巡る仕事上のパートナー同士の物語は、彼女の夢を通して美しいアダージオのように展開していく。
著者ヴィッキイ・バウムは映画『グランドホテル』で、一つの同じ場所で複数の登場人物がドラマを繰り広げていくという「グランドホテル形式」を生み出した功労者としても知られるだけあって、その実力は第三部のリハーサルから初日の幕があがるまでの、劇場内で様々な登場人物が繰り広げるドラマに集約されている。バレエ団の監督が、「あの初日はまるで真珠湾攻撃みたいな日だった」と回想するのだが、怒涛のように驚くような出来事が次々と起こり、本当に幕が開くのかとハラハラさせられる。一番の問題は、主役カティアの精神状態で、彼女はリハーサル前日に、再婚したアメリカ人の夫の浮気現場を目撃し、さらに開幕直前にやっと出来上がった舞台の大道具を見て、舞台恐怖症が始まってしまう。開演20分前。カティアは、初舞台の頃から舞台衣装に必ず縫い付けていた、グリシャからもらったお守りを投げ捨てる。
表紙のバレリーナのイラストに戻る。今の私たちの目から見れば、このバレリーナのアラベスクは、ちょっと時代遅れのアングルに見える。だが、小説を通して見えてくるのは、キャリアと結婚生活、そして女性の自立という現代にも共通するテーマだ。表紙を見て思い出したのは、1948年のイギリスのバレエ映画『赤い靴』で、この映画では、バレエに人生を捧げた若きバレリーナが、バレエと恋愛の両立に悩み、最後は悲劇的な結末を迎える。一方、この小説では、主人公に紆余曲折があったものの、最終的にはカティアは、自分の輝かしいキャリア達成と、暖かい家庭も取り戻せそうな予感で終わる。自分の意思に忠実に強く生きた女性が、社会から罰せられることもなく、暖かな愛に包まれていくようなラストシーンに、心が救われた気持ちになった。