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「…なのに…」と「…で…」の違い

サブカルチャーという言葉をよく聞くようになった頃から少し後の時代から、「…なのに…なんだ」という風に自分自身や他者のことを表現することが増えたように思う。前者の…と後者…は大抵の場合、一般的に対立する概念やいわゆる意外な組み合わせで、例えば「チャラチャラした感じ」だけど「哲学本好き」や、「お嬢様」なのに「ヒッチハイカー」など。個人的だけでなく、例えば芸能界での売り出し方にも「〇〇大生なのに芸人」「名門大卒なのにクラビアモデル」「医者なのに美しすぎる女性」のようなアングルで使われることが今でも多いように感じる。

でも、それにすごーく違和感をずっと抱いてきた。「…なのに…」なんて自分を紹介する国民は遠く探しても日本だけではないか。そこに根ざしているものは、前者の世界、後者の世界のどちらにも属したくなーい!!!という否定や、どちらの集団に対する見下す眼差しがあるように感じてならないからだ。

俺は名門大生。でもその大学生の真面目ちゃんと違ってイケてる遊び方を知っています。でも、クラブにいるただの人たちと違って、俺は勉強もできるしエリートなんだぜ、えへん! 見て見て〜 私って、社会的に賢いのに、こんなナイスバディで可愛いでしょ!というような言い方に私たちはあまりにも晒されていて、「お、そうなんだ」くらいにしかもはや思えなくなってきているけれど、実はとっても罪が深いのだと思う。
まず、そもそも、難関大学生はダサくて容姿も悪いし、一方で見かけが良かったり、服装や行動が派手だったりする人は社会的な地位が低いというのは思い込みと差別にすぎない。たくさんの人たちがいる集団でそんな単純化はできないはずだ。でも、もっと不思議なのは、その思い込みを持っていながらその相反するものを自分一人の内面に抱えていて、それがある種の「自分は(またはその人が)特別である」という優越性をその人物に与えている点だ。もちろん人間にはいろんな側面がある。作家の平野啓一郎さんが提唱されているような「分人」は、沖縄(琉球文化)で古くから言われている、人間は七つの魂を持つ、という見方とも通じ合い、特殊な概念でも全くないし、実際に自己が簡潔に統合されているなんて感じる人は皆無だろう。

ここで問題なのは、「AなのにB」という場合、A とB そのどちらの側面にも見下した気持ちを持っていて、私はどちらのにもどっぷり浸っていない、どちらよりも上な特別で優れた存在なんだ、という気持ちを皆、どこかに持っていることだと思う。
それって、すごく歪んだ自己否定だ。そのどちらの世界からも実は背を向けて逃げていることなのではと思う。対立し合う世界に自身を関らせ、かつどちらに対しても否定的な見方の綱引きをして、その引っ張り合いのバランスで成り立っている自分自身、そういうパラダイムに自分を当て込めると、絶対に自分自身を容認できなくなる。だから余計に他者に承認してもらいたいのだと思う。日本で承認欲求が強い人が多いように感じるのはそのためかもしれない。
複雑なのは、私もそのような気持ちがわかり、何ならそういう風に自身を見なしてしまう欲望がないとは言えないことだ。

多分、「…なのに…」を自分のラベルにする人の心持ちは「…で…」という人のそれとはだいぶ違うだろう。「AでB」ということはAでもBでもいられるという自信や自分への容認という余裕が感じられるから不思議だ。この、どちらにも属せない自分という優越感は多分サブカルが日本で受け入れられたり、日本の教育や社会の雰囲気とも切り離せないのだろうなぁと思うので、また頁を改めて考えていきます。

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