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ツバメの自由さと空の包摂

ツバメの巣立ちの季節になった。あちこちで大きくなったヒナが親鳥と一緒に飛ぶ練習をしているのを見かける。それを見て、なぜか涙が出てきた。

私の手の届く先には子ども達がいる。ささやかなことでパニックを起こしいつも不機嫌で、よくわからない言葉で絶え間なく喋り続け、目を話すとどこへいくかも何をするかもわからない子。何度言い聞かせても基本的な生活習慣さえ覚えられない子、危険や相手の迷惑など本能的なことがわからない子、すべて自己本位に行動して、こちらの言うことが通じない子。その横で疲弊する親の私。私の時間は、ほとんど無益で繰り返しの中身がないことばかりに費やされている。

彼らはどれほど頑張っても、この小さな子ツバメのように自分の意思と判断で自由に動くことはできないだろう。私も、親ツバメが子ツバメと一緒に自由闊達に飛び回るようにはなれない。子どもの自立を喜ぶことも、一生できないだろう。

悲しさは、私たちが普段社会で感じる他者との関わり、または障害を持つ他の人たちの生き方を見ていると余計に深くなる。いつも軽蔑されたり、避けられたり、社会的にも経済的にも取り残され、底辺で生きろと突き落とされ続けているように感じることが多々ある。

この国を動かしている為政者、社会的地位の高い人や発言力を持つ人の多様性が著しく狭まっているように感じる。一様に首都で育ち暮らし、恵まれた環境で生きてきて、「こんなことが?!」と思えることを大きなトラウマと言って憚らない人たち。お互い似たような人たちに囲まれて、感覚やそれを形作る実体験がすごく乏しいように見えて仕方がない。良い意味でのメリトクラシーが働かなくなって随分久しいこの国と社会で、たまたまそこに居合わせた似たような人たちの烏合で世の中が形作られ、車輪が作られ勝手に動いて行ってしまうようにずっと感じている。そのラッキーな人にとって、そうではない者は、同じコミュニティを作る仲間には値しない、遠い世界の想像もできない、取るに足らない住人なのだろう。それは、性差別、国籍差別や障害を持つ人への社会の受容度、150万人とも言われる引きこもりの人たちの存在に見事に裏打ちされている。

でも、これからの日本でこんな状態は持続可能なのだろうか。排除して社会から締め出し、適当なおこぼれを与えて(ついでに福祉ビジネスも儲けさせ)放っておくにはある程度の財力、余裕が社会に必要だが、人口も減り、産業も弱体化していく中、そんな呑気なことは言ってはいられない。

北欧の福祉政策は素晴らしい、女性活躍も進んでいる、と言うのは、何も彼らがとびきり人権意識に富んでいるからだけではない。切実たる事情があったからだ。

20世紀まで、北欧は貧しかった。狭く、耕作に向かない荒れた土地。太陽は照らずエネルギーを多量に必要とし、年の半分は薄暮の中に暮らし、季節性鬱を患う人も少なくない。ベルクソンの映画には狭いベッド(暖をとるため)で寝起きする寒村の漁民が描かれる。スウェーデンでもノルウェーでも、北海油田が開発されたからこそ今日に見られるような豊かな国になったが、それまでは、そのような厳しい環境を少ない人数で生き延びるには、どんな人もコミュニティに引き入れ、それこそ一人は皆のために、皆は一人のために貢献してもらうしかなかったからだ。
だからこそ、社会からとり溢れる人を作らない、という思い入れはとても強い。デンマークでは、失業対策はかなり介入度が高い。失業の翌日から始まり、徹底的にスキルトレーニングなどを行い、働き手としての価値を上げて速やかに再就職させる。日本のようにハローワークに自主的に行ってね、というような生ぬるい甘えは一切ないのだ。そこの延長線上に私たちのよく知る北欧の福祉尊重、多様性の尊重があるのだ。女性も積極的に働き、障害を持つ人も働いてもらい社会の活力になってもらわないと、国を、経済を、回していけないという必死の思いが政府にも人々にも共有されているのだ。結果、その産物として、油田だけに頼らない創造性豊かな産業、知的産業が栄えている。

翻って、この国の私たちはどうだろう。パターナリスティックに相手をジャッジし遠ざけ、惨めな状態に放っておく余裕はこの先あるだろうか。それとも、たとえ実利的と思われようと、社会と経済のため、この豊かさのためにできるだけ多くの人に主体的に社会参画してもらうと見方を考えるのだろうか。もう熟慮する時間は確実になくなっていると私は思う。

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