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【歴史コラム】オランダ通詞が語学と医学をセットで学ぶ理由


江戸時代の日本人の語学といえばオランダ語。これは江戸時代唯一のヨーロッパと繋がるカギでもある。
このオランダ語を学び、貿易や外交をサポートしたのが「オランダ通詞」である

ドラマ大奥のなかにでてきた吉雄耕牛はオランダ通詞のなかのトップ大通詞である

吉雄耕牛の肖像画。
ドラマ大奥では飯田基祐さんが演じた。


彼ら通詞の多くは、オランダ語と同時にオランダの医学を学んだ。いわゆる蘭方医でもある。

多くのドラマでは、彼らが単なる興味や高い志を抱いて医学を取得したと描かれることが多いが、実際はそんなドラマチックな背景はないようだ。

彼らがなぜ医学を学んだのか。
結論から言うと、
「語学を取得すると必然的に医学を学ぶことになる」
からである。
なぜそうなるのか。それは語学を教えたのが医者であったから。

通詞たちに語学を教えたのが出島のオランダ商館医たちだったからだ。

通詞たちは幕府からオランダ語を学ぶように言われていたが、学習費用のようなものは幕府は出してくれていなかった。
そのため、江戸初期の通詞たちは苦労したようである。

オランダ人に教えてくれと頼んでも、向こうも渋ってくる。彼らはあくまで商人であって教師ではない。儲けのないことはやりたくない。
かといって、通詞たちが語学能力をあげてくれないと日本との商談にも支障が出る。

そこで、オランダ商館医が適任ということになる。オランダ商館医とは長崎出島のオランダ商館付きの医師で、当然出島に暮らすオランダ人の健康管理や診療、治療を行うのが本業である。
彼らにはもう一つの顔がある。
「研究者」としての顔が。
日本をはじめアジアの動植物や文化を学ぶ博物学者として東インド会社から潤沢な給料と研究費を支払われていた。
東インド会社側の意図は、アジアからヨーロッパに輸出する商品の開拓をするためである。
そうして日本、アジアに関心のある優秀な人材を医師として送り込んだ。

なかでもケンペル、ツュンベリー、シーボルトこの3人のオランダ商館医は
「出島の三学者」と呼ばれて
日本の研究に大いに貢献したと称されている。

長崎県長崎市 出島にあるシーボルトが建てた顕彰碑(作者撮影2023.10.1)

彼らは、日本の通詞たちにオランダ語を教える代わりにオランダの最先端の医学を教えた。そして日本の通詞たちは日本の文化や言葉を教え、動植物の研究に協力した。いわばgive and take 、Win-Winな関係だった。

かつてポルトガルやスペインの宣教師が布教と同時にポルトガル語やスペイン語を日本人に教えたように。
江戸時代以前の、戦国時代の通訳者は
キリシタンが多かった。ところが禁教政策が施かれるとポルトガル語やスペイン語も禁止なる。話すことも、読むことも禁止になった。

長崎の通詞たちも、もともとはポルトガル語やスペイン語を話していたらしいが時代は変わり、徳川家康が天下をとり、幕府をつくり、幕府がオランダのみ交易を許すとなっていままで学んだ言葉を捨てなくてはならなくなった。
幕府は島原天草の乱のごとくキリシタンが再び反乱を起こすことを恐れて洋書の輸入を禁じた。
知らない者にとってポルトガル語もスペイン語もオランダ語も同じ異国の言葉に過ぎず、どれもキリシタンの国の言葉として恐れていたのだろう。

一方で、外交のため語学を学べ、費用は出さぬという矛盾したこともいってきた。
オランダ語を学ぶにもオランダ語の本が輸入できなければ読めなければ学びようもない。

その矛盾気がついたのが8代将軍徳川吉宗で
ついに洋書の輸入が許可されるようになった。

しかし洋書を買う金は幕府ではなく通詞たちが身銭を切らなければならない。
そのため通詞たちはオランダ商館医から語学を学び、医学を学び、洋書を買うために医者を稼業にするようになった。

【主な参考文献】
『出島』長崎市文化観光部出島復元整備室 平成七年4月初版 令和元年10月改訂版

日本史リブレット062『ケンペルとシーボルト 「鎖国」日本を語った異国人たち』松井洋子 山川出版

『阿蘭陀通詞』片桐一男 講談社学術文庫

『オランダ商館長が見た江戸の災害』フレデリック・クレインス著、磯田道史解説 講談社現代新書 

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