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宮沢賢治を通してみる当時の石界隈が面白い

宮沢賢治(1896 - 1933年・享年37歳)といえば、
・日本を代表する詩人・童話作家だという事
・石っこ賢さんと呼ばれるほど、石にどハマりしていたという事
・作品の中で多数の鉱物が登場・鉱物を用いた色彩表現をしている事
などを石界隈の方であれば、知識として知っている人は多いと思います。

はじまりは、そんな日本史に残る有名作家が、鉱物をどのように表現していたのか知りたくなり調べてみる事にしました。

しかしながら、調べるうち、彼の作中における鉱物に関する表現よりも、私が何より驚いたのが、今日まで多くの人によって、宮沢賢治とその作品に対するおびただしい数の評論や分析などの研究がなされているという事でした。

また、宮沢賢治によって残された資料の中から、当時の石界隈の状況を垣間見れる事が出来、その内容が面白かったため、今回はそれらの事について書いていきたいと思います。

1. 宮沢賢治に夢中な人が熱すぎる問題


宮沢賢治を好きな方々の情熱は凄まじく、、

今では、彼の趣味や趣向、家族関係、友人関係、経歴、宗教、性愛、家庭の経済状況はもちろん、果ては、上京した回数(岩手から東京に)、その滞在期間、その時立ち寄った場所まで細かく、つまびらかに明かにされています。

そういった事から、時々の出来事や人との出会い・別れが、各年代の作品にどのような影響を与えたのか分析され、様々な角度から論じられています。

鉱物関係でいえば、彼の作品に登場した鉱物名とその回数まで、鉱物別に細かくカウントしている宮沢賢治と石マニアの方もいらっしゃいます。

その他にも、宮沢賢治が好きで探求している方の集まりである『宮沢賢治学会』なる団体も存在し、出生地の岩手には宮沢賢治にちなんだ博物館『石と賢治のミュージアム』もあります。

最近では、宮沢賢治の父親(政次郎)にスポットを当て、親子愛を描いた門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』が直木賞(第158回・2017年下半期)を受賞し、菅田将暉さん主演で映画化(2023年5月5日公開)まで行われています。

もうみんな宮沢賢治が好き過ぎるんじゃないかと。。

宮沢賢治は生前は鳴かず飛ばずの作家でしたが、死後、その作品が評価された形で有名になった方です。

仮にも、その無名に近い状態であった宮沢賢治の生涯をここまで細かく、つまびらかにわかり、分析できたりするものでしょうか。また、何故そういった事が可能なのでしょうか。

その答えは意外とシンプルなものです。

それは、宮沢賢治が37才という短い生涯の中で残した作品(大半が未発表)や家族・知人への手紙があまりにも多いためです。
作品数だけで、詩約800篇、童話約100篇の膨大な数になるといわれています。また、残っているだけでも500通以上もの家族や知人宛てに現況を綴った手紙(書簡)を送っていました。

それらの資料や伝聞を繋ぎ合わせる事により、宮沢賢治という人となりの輪郭を浮かび上がらせてきたという事です。

またその浮かび上がってきた輪郭から、単純明快というよりは、多面的な捉え方がなされる彼の作品を皆それぞれ独自に解釈し、論じ合うのを楽しめる所が、人が宮沢賢治沼に深くハマっていく一因になっているのではないでしょうか。

2. 当時の石界隈はまるでRPGの世界観

宮沢賢治と東京の石屋との出会い

そんな宮沢賢治の生涯の中で一番私が大好きなパートは、東京で石屋をやろうと父親(政次郎)の説得を試みるというくだりです。
当時の状況を思えば、こちらまで胸が熱くなります。

宮沢賢治は14歳の中学校時代から鉱物標本の採集、鉱石や印材の収集に熱中し、盛岡高等農林学校に首席入学を果たし、土壌学を専門とする教授指導の下、地質調査にも従事し、卒業後は研究生として学校に残ります。
これは現在の大学院に相当するため、相当な専門知識を身につけており、趣味的にも教養的にもガチな石好きであった方であった事がわかります。

そんな宮沢賢治は22歳の時、東京に上京・滞在(1917年12月30日~翌3月末まで)しています。

今でも地方から東京に初めて行った時の驚きは大きいですが、当時であれば更に大きな衝撃を受けたものと思われます。
人が集まり、様々な専門店、業態の店舗があり、生業をなしている様は圧巻だったでしょう。

中でも、自分が学んできた地質や鉱物で生業をなしている石屋があり、自身が岩手の山で採集していたような鉱物を陳列・販売され、人がそれを買っていく様を目の当たりにした時は衝撃を超えて、感動したのではないでしょうか。

実際に、当時東京にあった水晶堂、金石舎という石屋に岩手県岩谷堂さんの蛋白石(オパール)の販売を試み、その交渉内容と石屋を望み通りの職業であるという興奮に満ちた手紙を父親(政次郎)に送っています。

拝啓・・尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に込相附き候。
蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買ひ申すべき由
岩谷堂産蛋白石を印材用として後に見本送附すべき由約束致し置候                                敬具

宮沢賢治全集9 - 書簡より

人造宝石との出会い・文献を求めて

また、この東京滞在期間に、宮沢賢治はルビーの人造宝石に関する論文の検索・調査を上野の帝国図書館(現在の国際子ども図書館)でしていたこともわかっています。

恐らく、水晶堂・金石舎といった石屋に出入りし、同じ趣味・趣向を持つ人々と交流する中で、どうやらヨーロッパの方で、人の手によりルビーの生成がなされたという人造宝石のニュースを耳にしたと推察します。

時はフランスのベルヌーイがルビーの人造宝石生成の成功を発表した論文(ベルヌーイ法)が世にでてから数年という時代でした。
科学技術が進み人工の石など珍しくもなくなった現在と違い、当時の人々、また関係者の受け止めはまるで違ったのではないでしょうか。

4大貴石である価値の高いルビーの生成。
歴史上、多くの人が夢見て成し遂げられなかった金を生成するという行為、すなわち錬金術が実現されたと思える程、当時、衝撃的なニュースであったと考えても不思議ではないと思います。

ベルヌーイ法により生成されたルビー (wikipediaより)

人の手により宝石を生成できるという事がわかった宮沢賢治は、ベルヌーイの文献資料を求めて、上野の帝国図書館に向かいます。

図書館での資料検索も今とは違い時間も掛かったことでしょう。
本当に見つかるのか期待と不安の中もあったと思います。

なんとか希望の資料を手にしましたが、もちろん日本語訳などされていない英語の文献です。
ネット翻訳もない時代、慣れない英語を辞書片手に来る日も来る日も通いつめ、内容を理解しようと努めたと思います。

文献を図書館で探し出し、夢中に読み進めている様子が1918年1月30日に父親(政次郎)宛ての手紙からも伝わってきます。

図書館にては希望の事項、予期よりも多く備わり居り誠に面白く御座候。

宮沢賢治全集9 - 書簡より

いざ、父にプレゼン! 宮沢賢治の東京石屋プラン

図書館籠りは数日続きましたが、満を持して父政次郎に、東京で石屋をやりたい!ついては、出資してくれ!という現在でいう投資家に出資を仰ぐビジネスプレゼンのような手紙を送っています。

そこにはロールモデル店舗である水晶堂、金石舎の商売内容を分析、利益も十分上げれると考えている様が見受けられます。

神田水晶堂・金石舎などに見る如く、随分利益もあり、しかも設備は極めて小。仕事の内容は、一、飾石宝石原鉱買入および探求 / 二、飾石宝石研磨小器具製造 / 三、ネクタイピン・カフスボタン・髪飾等の製造 / 四、鍍金 / 五、砂金及び公債買入 / 六、飾石宝石改造

宮沢賢治全集9 - 書簡より

もちろん、宮沢賢治の東京石屋プランは、水晶堂や金石舎と比べて、後発である事は否めません。
しかしながら、それらの石屋が行っていた商売内容と人造宝石の生成を組み合わせる事により、それらの石屋を上回れる宮沢賢治なりの商売での勝ち筋を見出していたのではないでしょうか。

結果は、父政次郎からの出資はなされず、東京で石屋をやる事はありませんでした。

石屋に石の販売を持ち掛け、人造宝石の情報を聞き、図書館で文献を調べ、自分の石屋を模索し、父に出資のお願いをした宮沢賢治。

ネットやSNSもない時代は不便ではありますが、自分の足で稼ぎ、見聞きしたものが全てであるRPG世界のような当時の緊張と興奮を感じることができたのではないでしょうか。

それでは、本日はここまで。
皆さまの宝石ライフが色鮮やかでありますように。

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