見出し画像

短編 暇乞い

「でも、そんなのって、無いわ」
唇を振るわせて彼女が言った。仕方ないことなんだ、と言った僕への返答だった。
僕が高校を卒業した春の日、彼女に別れを告げた。彼女は新二年生だった。僕らが通っていた高校では、一年に一回クラス替えが行われる。高校生になったばかりの彼女に出会って、惹かれあって、噂が流れて、大波乱の一年だったが、この春の桜の雨に全て流されて、彼女は新しい生活を始めることができるだろう。
そう思ってのことだった。
彼女に別れを告げたはいいが、その言葉はどこか言い訳じみていた。決して、彼女と別れたくはなかったのに、口をついて出るのは「新生活が」「別れはどうしようもない」「お互い新しい場所で」と、又はそれに準ずるフレーズばかりで、我ながら頭の片隅でどうしようもないやつだな、と思った記憶がある。
「好きって、いったでしょ、私のこと」
綺麗な桜色をした唇がわななく。見ていられなくて下を向くと、己の胸ポケットについた花が目に入った。居た堪れなくて、それを衝動に任せて握りつぶしたくなる。そんなことをしたら彼女が泣いてしまうだろうから、しないけれど。
「どうして」
花を握りつぶさなくたって、彼女の瞳から涙は溢れ出ていた。よそを向いていたから反応が遅れた僕は、あ、と出した手を宙に彷徨わせることになる。
「あたしのこと、好きって、いったのに」
ひどいわ。
桜の花びらが舞い散る中で、さめざめと泣く彼女は、途方もなく美しかった。僕を咎めて、ひどいと詰る彼女は、世界で一番可愛らしかった。
僕に、その存在に触れる権利は、もうない。
今、自分から失いにいったものの大きさを感じ取って、僕はどうしようかと地面に視線を這わせる。
心の柔い部分が、「愛だよ」とずるく叫ぶ。「君を愛しているから、君のことを思っているから、僕は自分から離れるんだよ」と、主張している。でもそれは、あまりにも自分本位な考えで、どうしようもないやつである僕にも、それくらいはわかった。
厚手のブレザーに包まれてなお華奢な体が桜吹雪に包まれる。黒いローファーが細いその足を支えている。膝丈のスカートが完璧に似合ってしまうくらいに元がいい彼女が大好きだった。もちろん一目惚れって顔だけれど、どんどん彼女を知っていくうちに好きになって、大事に大事になっていって、時には都合のいいように扱われて不安にもなったし、逆にこちらが浮気を疑われて泣かれた夜もあった。少なくとも、この一年のことを僕は忘れられないと思う。
「ありがとう。僕は幸せだったよ」
もう触れることは許されないから。卒業式を終えてしまった僕は、君に触れられる立場にはない。
せめて、泣きじゃくる彼女にも聞こえるように、気持ち大きめの声を出す。
君には届いただろうか。

暇乞い

副題:ひどいひと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?