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「黒」と「赤」の色使い、率直な描写、理解され得ない”貴方”の存在を肯定する”私”というかすかな救いが美しくて斬新な、キノコホテルの「アケイロ」のはなし

2023年11月、荻窪TBCの実演会の写真やFC生配信のおかげで、推し活アンテナの感度がめちゃくちゃ高い心優しく大人な先輩胞子のみなさまと旧Twitter(現X)でゆるやかにつながりができ、あらためて、何かのアクションに対してリアクションをするのは大事だな、とか、そういえばライブハウスってコールアンドレスポンス=演者と観客双方のリアクションをとても大切にする文化圏だったな、とか、いろいろ思い返したりした。
(自分からサーチしたりフォローしたりする丹力がない上、自分で言うのもなんですがとても内向きなアカウントなので、何かのきっかけで見つけていただいたみなさまと、その辺りを察しつつ、より長く推し活を楽しめる方向にそっとアシストしてくださった支配人のお気遣いに感謝しています。これからも気長によろしくお願いします。)

おかげさまで推し活の範囲が広がり楽しくなってきた一方、私生活はどうにも目まぐるしく、先日も笑っちゃうくらい興味が持てない用事への長時間対応ですっかり感情が無になりかけたので、活力欲しさにあらためて「アケイロ」を聞いてみたら、歌詞における色の使い方、キノコホテルの世界観と折り合わないようにも思える率直な表現、孤独な”貴方”に対する”私”の在り方の変化の描写など、いろんな魅力をあらためて発見。
どうつぶやこうかなと歌詞を眺めているうちに、140字におさめるの無理だなこれ、と思ったので、拙いなりに、こちらで文字に残しておきたいなと思った。

きっと今後もことあるごとに書いてしまうと思うけれど、こんなに精巧で美しく、聞き手があれこれ考える余白や奥行きを持ちながら、演奏、特に実演会では「爆音でいろんな音がしてすっごい楽しいー!!!わーい!!!」となるところ、まさに音を楽しむ「音楽」という形でこれだけいろんな要素を1つの作品にまとめているところが、本当にすごいなあと思う。

ひとり歌詞を眺めながら聞いているだけでもずっと面白くて飽きないので、音楽的な方面からも深堀りできるようになったら、恋は盲目というか、本当にキノコホテルしか目に入らなくなっちゃうだろうなー、とも思う。
(しかし今はキノコホテル(と関連作品)を聞くのに忙しくて他の音源に手が出ないという始末。今はアルバム9枚という曲の厚みにほくほくするだけの毎日。)

楽曲はこちらから、歌詞全文はこちらから、それぞれどうぞ。






1.黒/赤で描かれる楽曲の世界観、”お人形””大地を焼き払う”という言葉の布石が楽しい冒頭

気易い言葉で 転がり落ちていく
闇から闇へと 誘う人の群れ
皆 囚われのお人形

火を噴く 太陽が
大地を焼き払う
処女の涙は 爛れた硝子の色
拾い集めては血を流す

キノコホテル アケイロ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)
(作詞:マリアンヌ東雲 作曲:マリアンヌ東雲)

はじまるよ感満載のイントロをいつも楽しみすぎるせいか、いままで意識していなかったのだけど、あらためて冒頭を見ると、”転がり落ちていく””闇から闇へ””囚われの”という言葉があり、アケイロとは対照的な闇=黒のイメージがきちんと描かれていることにあらためて気づいた。
(転がり落ちるとか囚われるという言葉、私の場合は穴とか底なし井戸とか洞窟とか、なんとなく出口の見えない暗いところを連想する。明るい場所の場合は転がり出る、という方がしっくりくる気がする。)

ここで使われている”お人形”という言葉、所詮みんなどこにもいけないという閉塞感をたった3文字で表現しつつ、次に出てくる”処女の涙”という言葉を補完するような役割も果たしていて、連想ゲームのように歌詞同士をつなげる、巧みで美しい布石のようにも思える。

続く次の段落、”火””太陽””焼き払う””爛れた硝子の色””血”と、まさにアケイロそのものを表す言葉尽くしで、前のパラグラフの黒との対比がとても鮮やか。ペンライトを振るなら間違いなく赤一択。
”処女の涙”という言葉は、急に聞くとロマンチックさが必要以上に目立ってしまうことがあるけれど、前に”お人形”と言う歌詞が出てくることでワンクッション置かれていて、リスナー側もより自然に聞けるのかなと思った。

”大地を焼き払う”という表現は、”お人形”と同様、次の歌詞への布石にもなっていて、聞き手側の想像を手助けする効果があると思っている。詳しくは次のパラグラフで。

ここまでで、黒との対比による赤=アケイロの鮮やかさを印象づけるだけでなく、この歌の世界観(誰もどこにも行けない閉塞感の漂う、純真な人も傷ついてばかりの殺伐とした世界であること)の説明をもなしており、このコンパクトさでこの情報量を伝えきる構成の巧みさと言語感覚に、もうなんかくらくらしてしまう。
歌の導入部でもあるので、過去のキノコホテルの作品にも通ずる皮肉っぽさ、残酷さ、昭和感というような、これまでの流儀に沿うような言葉をあえて選ぶことで「キノコホテルの基本スタイルはこれです!」とリスナー側にわかりやすく伝えてくれている感じもするのだけど、ここから先、ちょっと様子が変わってくるところがとても面白い。



2.過去を肯定し立ち返ることを促す率直な表現が斬新な、サビまでの歌詞

泣いたら良い
乾涸びるまで
壊れて しまわぬように
貴方はもっと素直だった
そうでしょう 思い出して

止めないで その激情を
迸るまま
躰ごと 全部剥き出して
髄は何色?

誰も貴方の顔は見ないよ
せめて隣に居てあげる

キノコホテル アケイロ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)
(作詞:マリアンヌ東雲 作曲:マリアンヌ東雲)

ここでは”貴方”に向けて私が語り掛けるという形で、”泣いたら良い””壊れてしまわぬように”=自分を守るために泣くことと、”素直だった”過去を”思い出して”=過去を良きものとして自然体で受け入れ、そこに立ち返ることを肯定する歌詞になっていて、今までキノコホテルの歌で表立って扱われることが少なかった、どうしようもなく立ち尽くす人をいたわり、過去に寄り添い立ち戻ろうと励ます気持ちを、過度に美化せず等身大で、率直に表現しているところがすごく新しいと感じる。ビギナー胞子なりに、キノコホテルでこんな歌詞が聞けるのかー!といううれしさがある。

(私個人の実体験としても、物心つく頃からこれまでに、たびたびこういう気持ちになったことがあるので、なんというか、ある程度の年齢の人はみんな須らく身に覚えがあるというか、これわかる、という率直な実感が持てる箇所なんじゃないかと勝手に思っていたりもする。)

この箇所だけなら、他のJ-POPや流行の歌などでももしかしたら見かけることもあるのではと思うくらい、シンプルでわかりやすい表現でもあると思うのだけど、次の段落(つまりサビ)で、”止めないで その激情を””迸るまま””躰ごと 全部剥き出して”と、これまでのキノコホテル節が挟まるのがとても格好良い。身を切り刻み中身をさらす苛烈な生き方を肯定するところは変わっていないんだなと思う。わーい大好きもっとやってー!という気持ちにもなる。

ちなみに”乾涸びるまで”という表現は、前の段落の歌詞”大地を焼き払う”を受けてのもので、聞き手側は焼き払われた大地というイメージから乾涸びるという言葉を受け止めやすくなっているのでは、とも思っている。言葉がつながっていく感じが楽しい。

”誰も貴方の顔は見ないよ””せめて隣に居てあげる”は、一見そっけなく思えるけれど、”髄”=本質が(まだ)わからない関係性・距離にある”貴方”のことを慮りつつ、いまできる精一杯の心配りをしている感じがして、あえて踏み込まずに、傍にいるよと声をかけて隣に佇むだけにとどめている強がりな姿に健気さも感じて、いつも少しきゅんとする。



3.夜に身を置く”私”の素直な気持ちと、過去から現在に向き合うことを”貴方”に促す、動き出す予感に満ちた歌詞

試して試されて
変われるものならば
今頃私は 眠りにつけたかしら
何処で運命が分かれたの

泣かせないで
まだ此処に居て
感じて この体温を
貴方はもっと孤独だった
そうでしょう 顔を上げて

キノコホテル アケイロ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)
(作詞:マリアンヌ東雲 作曲:マリアンヌ東雲)

”試して試されて”から”何処で運命が分かれたの”までの部分、この曲がシングルでリリースされた3か月後に支配人以外のメンバーが全員退職したことを思い起こしてしまいがちで、当時を知らない私でもなんだか胸がぎゅっとなるので、それ以前から応援されている方々の中には、もっと複雑な感情を抱かれる方もいるのかもしれないなと想像したりする。

”今頃私は 眠りにつけたかしら”とあるので、”私”は眠れないまま、夜の只中にいて、”何処で運命が分かれたの”と、自身の過去を振り返っている様子がある。”貴方”に対して身を守るために涙を流すこと、過去に立ち戻ることを肯定した”私”もまた、同じように動けずに立ち尽くしていることが読み取れる。

”泣かせないで””まだ此処に居て”という言葉で、前の段落で”隣に居てあげる”と告げていた私の本心は、”貴方”に傍にいてほしいということだったのか、ということがわかる。
続く”感じて この体温を”という歌詞のうち、体温というのは体の中=歌詞でいうところの”髄”の一部なので、”私”は”貴方”に自分の”髄”(の一部)を伝えたい、知ってほしいと思っているのかな、とも想像できる。

”貴方はもっと孤独だった”と過去に目を向けることを進めながらも、今度はそこから”顔を上げて”と促していて、より孤独だった過去を踏まえて現在へ目を向けること、現実と向き合うことを呼びかけていて、ここから先は何か動き出すのかも?という気配も感じさせる。


4.”狂い咲く”のニュアンスと、”夜”と”緋色”の描写が意味深で楽しい歌詞

らしくあれなんて 奇麗ごと
誰でも言うさ
犠牲の上に狂い咲く
愛は何色?

私の声 呼吸してる
貴方の為に
悦楽の夜重ねたら
恋は緋色

キノコホテル アケイロ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)
(作詞:マリアンヌ東雲 作曲:マリアンヌ東雲)

”らしくあれなんて 奇麗ごと””誰でも言うさ”には、きれいで簡単な励ましの言葉をかける周囲の誰かに向けた醒めた視線を感じる。
”らしくあれ”と言う誰かは、いったいどういうものをらしいと思っているのか、そもそも”私”や”貴方”と真摯に向き合い的確に「らしさ」を把握している人なのか(いや、そんなはずはない)、だからこちらも真に受ける必要はない、というあきらめの気持ちを、ひとりごとをつぶやくようにさらっと歌っている感じがする。変なじめじめ感がないのが良い。

”犠牲の上に狂い咲く””愛は何色?”は、”私”自身の自問自答のようにも、”私”から”貴方”への問いかけのようにも受け取れる。もしかしたら両方なのかも。
ちなみに”狂い咲く”という言葉が「狂う+咲く」ではなく「狂い咲き」から来ているとすれば、「狂い咲き」には「季節外れに花が咲くこと」という意味のほかに、「(比喩的に)盛りを過ぎたものが、ある一時期、勢いを盛りかえすこと。」という意味がある(デジタル大辞泉調べ)ので、どちらの意味でとらえるかで、歌詞の意味合いがちょっと変わる。”私”と”貴方”、もともとお互いの過去の姿を知る間柄ではあるようなので、もしも後者の意味だったなら、と考えてみるのも面白そう。


”私の声 呼吸してる”のパラグラフは、”私”と”貴方”の関係が進展し、何度も夜を超えて恋の色を知った=恋仲になったというように、文字通りの艶っぽい意味にも受け取れるのだけど、”悦楽の夜 重ねたら””恋は緋色”と、終盤に向かうこのタイミングで久々に具体的な色の表現(”夜”=闇=黒、恋=”緋色”)が出てきたことに注目して考えてみると、単に2人の関係性を歌っただけではなく、”貴方”も”私”もそれぞれに立ち尽くしたまま動けずに身を置く明けない”夜”が”緋色”になる=どうしようもない現状が終わり、その先が開けていく可能性とその方法とを、もしかして示唆しているのでは?とも思っている。

”貴方”の場合は自分を守るために泣いたり、過去の自分の素直さや孤独を思い返したりする時間を、”私”の場合は変わるべきだったのかと悩み眠れず、”貴方”にまだここにいて体温を感じてほしいと思った夜を、相手が傍にいることを感じつつもそれぞれひとりで幾度も重ね続けることで、暗いばかりだった夜がだんだん”緋色”に変わっていく(自分と向き合い続けることでしか夜は明けない)、というメッセージがあるようにも受け取れる。
ちなみに、どちらの時間も自分の過去や感情と向き合い続けるつらさはあるのだけど、過去に目を向けて徹頭徹尾自分のケアだけに力を費やすという点では癒しと慰めを得る時間でもあるので、”夜”という単語の前の”悦楽の”という修飾語とも、矛盾はしないかなとも思っている。こちらの解釈だとちょっと皮肉が効きすぎているかもしれないけれど。

それからこのパラグラフ、実演会で聞くと、「今、このライブハウスにいる目の前のあなた=観客と楽しい夜を重ねるためにこそ、キノコホテルは呼吸し演奏してるのよ」と歌ってくれているようにも受け取れるところが好きだったりもする。


5.理解し得ない”貴方”を理解できないまま肯定し、一時ではあっても寄り添う”私”という、かすかな救いと夜明け前を描く結び

止めないで その激情を
求めてやまぬ
躰ごと 全部剥き出して
髄は何色?

誰も貴方を理解出来ない
せめて隣に居させて
夜が明けるまで

キノコホテル アケイロ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)
(作詞:マリアンヌ東雲 作曲:マリアンヌ東雲)

再び戻ってくるキノコホテル感満載の歌詞。
”恋は緋色”であることが明らかになるくらい”私”と”貴方”の関係は近づいているので、前のサビでは”迸るまま”と”貴方”側の意思を優先する表現になっていたところが、”求めてやまぬ”という”私”側の強い思いが出ている表現になっていて、これまでの歌詞と比べれば、隣に黙って佇む状態から、”貴方”を知りたいと直接言うことが許されるくらいの距離感になったのかな、と想像したりする。

ただし、それでも”髄は何色?”とあるので、やっぱり”貴方”の”髄”=本質はわからないまま、ということも読み取れる。
もっと言えば、”貴方”の本質は”私”には理解し得ない、とらえられないものであるということを”私”が自覚した、ということなのではと思っている。

そして最後のパラグラフ。
直前の歌詞と”せめて隣に居させて”の”せめて”という言葉から、”誰も貴方を理解出来ない”という言葉の中の”誰も”には、”私”も含まれるのだろうことが読み取れる。(誰も理解できなくとも”私”だけは貴方を理解できると”私”が思っているとすれば、”せめて”ではなく”だから”になると思う。)
ある程度交流し、しかもお互い似た痛みを持つ”私”から、誰にも理解できないと言われた時の”貴方”の孤独感とそれを伝えた時の”私”の気持ちを想像すると、ちょっと胸がしめつけられるような気持ちになったりもする。


ただ、”私”は、それでも”隣に居させて””夜が明けるまで”と続けていて、”貴方を理解出来ない”ということを理解した上で、”貴方”があるがまま存在することを肯定し、少なくとも夜が終わるまで=”貴方”が一歩踏み出せるようになるまでは隣にいたいと思っているよと告げている描写に、かすかな救いを感じる。


「私はこういう人間/キャラクター/能力があるので有用です」と周囲に簡潔にアピールできるプロデュース力と周囲からの共感を得る(反感を買わない)能力が重要視される令和の世で、誰からも理解されない本質を持つ人は、「なんでそんな生き方してるの?」と問われたり、「もっと周囲に歩み寄るように変わってほしい(変われないならここから出て行ってほしい)」と求められたりすることはあっても、「理解されない本質を持つあなたも、そのまま存在していいんだよ」と肯定される経験は、さびしいことだけど、現実にはなかなかないんじゃないかと思う。

でも、少なくとも歌の中の”貴方”には、”貴方”のことが理解できないということも、(そしてだからこそ)一緒に過ごせるのは夜が明けるまで=お互いが再起するまでの短い間だけということも自覚しつつ、理解できない”貴方”の存在をそのまま肯定して傍にいるよと言ってくれる”私”が確かにいるという、ちょっとした希望が描かれていて、それが夜明けのイメージ、朝日が昇って徐々に黒からアケイロに染まる、空の色のイメージとも結びつくのが美しいなと思う。

きっと”貴方”の本質は今後も理解されないだろうし、夜明けが来たら、不理解への最大の理解者だった”私”とも別れざるをえないんだろうことも予想がつく。それでも一時、自分が苦境に立っていた”夜”の時期に、ただ傍にいてくれた”私”が存在したという記憶/過去は、この先も”貴方”の支えになるのでは、というか、なってほしいな、と思っている。



…書きたいだけ書いたら、すごい文量になってしまった。
ちなみに原曲の長さは3分ちょっと。なんというコンパクトさ。ほんとすごい。

こんな風に長文であーだこーだ書くの、蛇足の極みだよね…と自分でも思うのだけど、この量の考え事を誰かに時間をもらって聞いてもらうのもひたすらに申し訳ないし、ひとりで抱えたまま生活しようとすると頭がパンクしてしまうし、と言い訳しながら、今後もひっそりと書く、というか、書いてしまうと思う。ゆるくお付き合いいただける奇特な方がもしいらっしゃるようでしたら、引き続きよろしくお願いします。

…行く前に把握しておけばよかったなという情報がいくつかあるので、忘れないうちに新宿闇市のことも個人の備忘録として書いておきたいのだけど(つぶやくと流れて行ってしまうので)、12月は実演会と他音源のリリースラッシュで予定がてんこもりなので、無理かもしれないなーと思いつつ、これを書きながらまたキノコホテルを聞いている夜。



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