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それはわたしの中にいた。

なんでだろう、ちかい。一瞬そう思ったが、この感じは前にも体感している。目の前からいなくなった大事な人が、前よりずっと近くに感じる。もう私の中に入っちゃってる存在感。こうなったら、都合のいいように妄想するのだ。

だからgooも、入居してます。犬ばかヤスコの心の中ですが、おります。玄関や脱衣所、キッチン、リビングにわたしの寝室。どこを見渡してもgooがいた欠片が、残像がありありと浮かんでくるのです。

だから空白はあっても、不思議とわたしの側にいるかのように、はあはあと息つかいを感じている。

それでも、不意に喪失感がぎゅわーっと刺さることもある。

あれから、お線香をあげ、花を飾るのはわたしの役目。朝いちばんに水を替えるのは夫のルーティーンになった。相変わらず、骨壷をなでなで、「おはよう」「いってきます」「ただいま」「♡」「おやすみ」ごくごく自然に話しかける。

そこにはいないけど、声に出して名前を呼びたいだけだと知っている。

アオスジアゲハという使者。

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人間と同じ、四十九日が過ぎた頃だった。いつものように、お線香をあげ立ち去ろうとした時、ベランダにふわふわ舞う蝶が視界に入った。

こんな上まで蝶がくることは今まで一度もない。まして花らしきものはなく、紅葉や風知草、ススキに松、南天とみどりみどりのベランダだ。

わたしは静止したまま、その青い蝶を目で追っていた。こんなところまで飛んできてくれて、ありがとう。やさしいな、そんな気持ちになった。

すると、友人は「ぐーちゃんですょ。」「蝶ってつかいのものなんですょ。」ときた。今まで生きてきて、蝶にはまったく興味がなかった女子だ。昆虫としても、イラストになっても蝶には関心がないまま大人になった。

「ぐーちゃんが逢いにきてくれてるんですょ。」そんな、そんなこと。いやいや、蝶がgooって。

不思議なことだ。それから外出するたびに、わたしの周りにふわふわと、蝶が飛んでいた。いままでも、普通に飛んでいたんだろう。わたしには見えてなかっただけかもしれない。

それにしても、そうは言っても出かけるたびに目の前に現れるので、ついつい「あ、いってくるね。」とか、「かえってきたょ。」と蝶に向かって発している姿は、誰にもみられたくない。

たまたまかもしれない。でも、そんな風に思えることも、小さなひかりになり、やさしい気持ちになる。

当たり前だが、冬にその姿をみることはない。春から夏にかけて、また来年も近くにきたなら寄っていってほしい。その時はまた、声をかけよう「おかえりー。」

今日もいちにち、ありがとうございました☻今朝はアゲハチョウが、ベランダに現れました♡



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