うちのマンションには、高齢の女性たちが一人で生活している方が多くいらっしゃる。 夫に先立たれ、ひとりぽっちになった女性たちは どんな風に寂しい時間を乗り越えてきたんだろう。 いまでは、もうみなさん生き生きとしている。 というか、元気そのものだ。 やっぱり女という生きものは強い。 もう逞しいとしか言いようがない。 諦めではなく、覚悟だ。 そんな女性たちの中に、アダチさんがいる。 元々お一人だったのかは知らない。 少し痴呆があり、毎朝ディサービスの方が迎えに来られてエレベー
タイトルと写真は何の関係もございません。 まあまあ、ほどほど、そんな言葉が今の自分。 昔からしっかり者に見られることが多いのだが、本人は至って抜けが多い。 いまの仕事は医療関係なのだが、持ち前のお調子のよさでさばききる。 頑張ってるように見えるだろうが、本人は案外 ひょうひょうとこなしてる。 お節介な性格からか、初対面の人にも臆することなく笑いかけて話してしまう。 まあまあ元気で、ほどほどに明るく、ひょうひょうとしている。 あ、ぐぅとそっくりなのです。 犬ですけど、
お誕生日おめでとう。最後になるかもしれないと どこかでは感じながらも、誕生日を祝ったのを思い出す。 あの日も、あの日も。 大切なひと、可愛かった犬の誕生日がくると 毎回おもうことがある。 後悔よりも、哀しさよりも、笑ってる顔ばかり浮かぶのです。 それくらい年月が過ぎたのだ。 あなたが居たから生まれたわたし。 あいする犬ぐぅの存在。 わたしには命日よりも大事な日が誕生日なのだ。 毎日、どれだけ満たされてたか。 やっぱり居なくなると気付くんです。 おおきな穴が空いた
LINEが入ったのは日曜日の午後だった。 タイトルにある「お空組」というのは、愛犬が亡くなり今いる世界から空へ旅立ったことを意味する。これは、糸井重里さんの会社「ほぼ日」からうまれたアプリ「ドコノコ」だけの言葉かもしれない。 旅立ったんだ。 ぐぅがそうだったように、「ことしの桜、みれるかな。」散歩道で会うと交わされる、この言葉が何も聞かなくても理解できた。 最後に会ったのは1月。カートにちょんと座り、お父さんとゆっくり散歩をしていた。「全盲になり歩くのもぎこちなくてね
愛おしくて抱いてるのです。のはずが、写真を見返すとまったく逆でした。 と時間が経てば見方が変わることがある。この時は日に日に弱っていく愛犬を、ぎゅっと抱きしめることが多かった。 ただ、わたしがそうすることで、愛犬も安心するのかもしれないと思っていたからだ。 写真から読み取れること、それはその時、その時の自分の思いや感じ方によって変わるんだ。 あ、わたし抱きしめられてたんだ。 とはいえ、もう抱きしめることはできないのだ。 その短い生命をどこで、どんなひとと過ごしたい
冬の朝、通勤に自転車をつかい冷たい風を感じるのも悪くはない。 つんとした空気が顔にあたり、冬の匂いがする。その時だ、ふと脳内にある一人の友人が現れた。 それは高校時代の友人で、もう何十年と会っていない。それでも毎年年賀状のやり取りをし、母になったことや子供ができたこと、もう巣立っていくことなど卒業してからの歴史を知ることになっていた。 毎年、年賀状でその子の現在を知ることで、あの頃とあまり変わってない自分を認めざる得ない。 その友人は、周りに流されない気質を高校生なが
元気でいますか。相変わらずへらへら笑いながら歩いてる姿が浮かびます。 そっちは穏やかな時間ながれてますか。 いつもの顔ぶれたちと楽しい毎日ですか。 この世では、いろんなことが起こり人間は容易く会いたい人に会えない日々が続いてます。 いま、この状況の中にきみがいたらと常々考えたりしています。 今まででいちばん、一緒にいられる時間ができてただろう。散歩もゆっくりと、なんども誘ったにちがいない。 手ぬぐいに保冷剤を入れて首に巻き、人間もいぬも夏の散歩にでかけてた。 手
いちまいの写真の中にも、書の作品を作る時も、料理を盛り付けるお皿にも、余白ってわりと意識している。 なにもない場所。空白。何かはいれる余地。 それは未完成のような空間に見えるが、ちゃんと考えて余白を作っている。 ふと、閃いた。いいこと思いついたーくらいに。わたしの中にも余白を作ろう。ぎっしり予定なんか入れない。がっつり勤務もごめんなさい、わたしのペースで働きます。 ここ空いてまーす。この余白、なにに使おうかな。あ、なんでも入る余地ありまーす。と自分に余裕を持たせておこ
伊勢では、毎月1日に伊勢神宮へお参りする風習がある。それが「朔日参り」だ。先月も無事に過ごせましたと感謝し、新しい月の無事をお祈りする。 毎月一日、おかげ横丁は早朝から店が開いており、朝市で地元の物産も出回り、朝粥なんかもいただける。 赤福本店の「お朔日餅」本命のイベントはこれです。これを目当てに、朝の早くから長蛇の列に並ぶのだ。あんこ好きには、へっちゃらですが季節を選んで行くべしだ。 毎月一日、赤福本店で季節ごとに変わる和菓子が販売されるのが「お朔日餅」わざわざ三重県
毎日がウキウキでわくわくで楽しいったらありゃしない。そんな毎日を送っている方も中にはおられるかもしれない。 事業がうまくいってて、夫婦らぶらぶで何の心配もないくらいの資産があり、周りにはいい人ばかりで、縁あって繋がりが、絆が、と見えない力に支えられてるんです。と眩しいくらいの笑顔で語る。まぶしすぎる。 最高じゃないですか。すばらしいです。 でも見えてるとこだけが真実ではない場合もある。外からは見えてないが、努力や苦労もいっぱい経験したからこそかもしれない。 だから目に
春は苦手な季節だ。とむかしから口にしてきたが、それはうかれてる感が性に合わないからだった。 だが、しかしそうは言っても、春に出回る野菜をうまーいうまーい♡と毎年おいしく食しているということは、春もまんざらではなく、ちゃんと受け入れているということになる。 筍に始まり筍で終わる。たっぷりの水を鍋に入れ、先っちょを斜めに切り落とし糠と唐辛子をいれ、1時間ほど放ったらかし後は、そのまま放置。で、水洗いしながら皮を剥く。 若竹煮やたけのこご飯、天ぷら。牛肉と甘辛く炊くのも、うま
ことしの桜と昨年の桜は同じ場所で、同じ時期に咲く。あったりまえだが、見るひとの心の中は微妙に違ってて、変化している。 どうして桜の木を見るだけで、うにょうにょと心臓が動くのか。いつも、この「はる」という季節だけは、うにょうにょする。 そしてわかったことは、夏も秋も冬も、なにか目に飛び込んでくる圧倒的な、どーんと見せつけられる風景がないのだ。 桜が咲き誇り「はい、春です。」「はじまるょ」とか言わんばかりに、ふわふわと花をつけた木々が立ち並ぶ。 わたしが唯一、好きだった春
①得意なこと(ちょちょいとできてしまうこと。) ②すきなこと(ついつい調べてしまうこと。やっぱり興味があること。お金を払ってまで学びたいこと。時間を忘れてしまうこと。) ③大事なこと(自分の根幹にある価値観。心の奥底で望んでいること。) これら三つをそれぞれ書き出してみると、だいたい自分像が見えてくる。最近はこんなことを繰り返し「やっぱりな。」「まあまああるやん。」と肩書きというものを持ち合わせていない「わたし」は、こうやって自分自身を確認することで、何ひとつ成し遂げら
10年という言葉を意識し出したのは、去年の年末くらいから。「2011年3月11日」大きな震災でたくさんの方が犠牲になった。そしてこの年の秋、母もこの世を去りました。 私だけではなく、ひとそれぞれに10年という時間が流れていたことになる。あの日から、という思いもそれぞれで、眼を閉じ手を合わせる人も、いつもと同じ日常の人にも「あれから10年が経ちました。」は変えられない。 2021年。読みかけの本が増えてますよ。noteも更新できてませんよ。そうです、何やらお告げのよに「10
あけました新しい年。おめでとうございます☻ どんなに時代が進化しても、「手書き」できる手帳がわたしには必要で、日記のようなものになる。365日はどんなことを感じて、紆余曲折しながら過ごしたか、喜怒哀楽とかでこぼこした感情さえ浮き彫りになっている。だから、何年か後に「へぇー。そうやったん。」と誰かの日記を読んでるかのような感覚が、ぶるっとくる瞬間だ。 去年の手帳から今年の手帳に変わるとき、母からもらった最期の手紙を入れなおす。短い文章だ。でも、あの時「もう次にもらえない手紙
ひとそれぞれ、車を選ぶ基準は違う。やっぱり燃費がいいほうにしょう。家族も増えるし大きめでもいいんじゃなーい。いや、エンジンが、いやFFが、、、。 4年ほど、わが家の一員だったmini Cooperとお別れした。小さなボディで大阪から京都までを往復する毎日。途中で止まったことも、ライトが点かなくなったことも、ルーフからの雨漏りも、エアコンがきいてないょーも、隙間風さむいょーも。 ぜんぶ、ひっくるめて「よくがんばりました。」と言いたい。ありがとう。 この車に決めたのは、もち