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おじいさんのカメラ

祖父について書いたエッセイが、昨年末にWebで公開された。

掲載されたのは「かくかぞく」という、家族についてのエッセイを多数掲載しているWebメディア。ご縁があって、知り合いの編集者さんから「家族写真」についてのエッセイを頼まれたのがきっかけだった。

なんとなく引き受けたはいいものの、「家族写真」に関するエピソードなんて思いつかないぞ、、、と思っていた時、ふと思い出したのが、かつて祖父から譲り受けたカメラのこと。

ライカやハッセルブラッドのような高級機ではなく、1950年代に製造され、祖父が購入して使っていたという国産のカメラだ。僕が大学生の頃、長く引き出しの奥底で眠っていたのをいいことに、引き取らせてもらうことになった。母が学生時代に使っていたという時代を挟み、親子3代に渡って受け継がれる品物になった。

でも祖父は、このカメラを使ってどんな写真を撮っていたのだろうか。特に写真が趣味というわけでもなかった祖父にとって、カメラを買った動機とは、おそらく家族の写真を残すことだったはずだ。

残された古いカメラを前に、祖父がどのような「家族写真」を残してきたのかを考えた。僕の知らない祖父の姿を知りたいと思った。

昨年の6月、母、叔母、そして90歳になる祖母にも手伝ってもらい、祖父が撮影した写真のアルバムを見返すことになった。

残念ながら祖母は、祖父が残したこのカメラの存在をすっかり忘れていたようだった。祖父がいつ頃からこのカメラを使っていたのか、どうやって手に入れたのか、その手がかりとなる情報を掴むことはできなかった。

それでも、たくさんの古い写真が入ったアルバムを前に、祖母と母、そして叔母たちの会話が弾んでいく様子が印象的だった。もちろん内容は僕の知らない話ばかり。中には当時の家族旅行の記録が出てきたりして、より具体的な内容をうかがい知れるものもあった。

もちろん祖父は写真のプロではなかったので、特別に「上手い写真」があったというわけでもない。しかし祖父が残した数々の写真を見ることで、僕が知らなかった祖父の「父としての姿」を感じることができた。当たり前だけど、母や叔母にとっては間違いなく一人の父親だったのだ。

家族写真には、その人が家族をどう見つめていたかに思いを馳せるためのヒントが隠されている。

写真というものは、もしかすると撮ることよりも残っていくことに価値があるのかもしれない。

撮ったその瞬間よりも、それが長い年月を経て熟成されていくことで、その瞬間の価値が何倍にも増していく。写真を撮る人間として、写真を形にして残していくことの大切さを感じる。

遠い昔のかすかな記憶が、目の前の写真をきっかけにして少しずつ鮮明になり、何気ない時間を思い出すきっかけになる。家族写真の力というのはそういうものなのだろう。自分にとって身近な人の新しい一面を知ることができただけでも、古い写真を見る機会ができてよかった。


そんなわけで、短いエッセイを書きました。この年末年始に家族と時間を過ごした人、または色々あって会えなかった人にも読んでいただけるとうれしいです。

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